ウロボロスの繁殖-4
シャルが嬉々とした顔でベッドの柱に掴まって滑り降りようとするのを、ヘルマンは慌てて駆け寄り抱きとめた。
「や!や!」
脱走を阻まれたシャルは、腕の中で憤慨してもがく。白衣の襟を掴み、手足を振り回す。
ポカポ殴るのは小さな弱々しい手だが……こら。
眉間と鼻の下とか喉仏とか、的確に急所をつくんじゃありません!
「残念ながら君の力では、さほど効果は得られませんよ」
そもそも、魔人たる身体は痛みを感じない。
そう告げると、今度はネクタイを思い切り引っ張られた。
「ケホッ!家の中を見て回りたいなら、抱っこして連れて行きます」
溜め息混じりにヘルマンは告げる。
自分そっくりの性格を受け継いでしまった娘に、言っても無駄だろうと知りながら。
シャルは大人に連れて行って欲しいのではなく、自身で好奇心の赴くまま自由に探索したいのだ。
だが、ヘルマンの育った離宮は平屋建てで、さしたる家財道具もなく危険も少なかったが、この家には錬金術で使う危険な薬品や道具がてんこ盛りだ。
「べー!」
しまいにシャルはもがくのを諦め、小憎たらしい声で舌をつきだした。
「思い切り遊んで良いとは言いましたが、危険な場合は阻止いたしますよ。何しろ僕は……」
一瞬、言葉に詰まる。
この呼び名を誰かに言うなど、一生ないと思っていた。
サーフィはシャルに、ヘルマンの事を『そう』呼んでいたが、改めて自分で口にするのは、なんて照れくさいのだろう。
勇気を振り絞り、喉にこびりついてしまいそうな言葉を形にする。
「僕は……君の、父親、なのですから」
意識の中で子ヘルがニヤニヤと……とても嬉しそうに、優しく笑っているのを感じる。
シャルは憮然とした顔で腕の中に収まり、「ん」と扉を指差した。
どうやら妥協する気になったらしい。
「はいはい」
苦笑し、油断なくシャルを抱きかかえながらヘルマンは子ども部屋を出た。
***
「ぷわぁ……」
書斎に並ぶ本と薬品棚を前に、シャルは瞳を輝かせる。
しかし、伸ばした小さな手に分厚い錬金術の本は重すぎて、引き抜くことすらできない。
「これですか?」
ヘルマンは椅子に腰掛け、シャルを膝にのせて本を開く。
「ん?んー」
ビッシリ並ぶ細かな文字と複雑な記号に、シャルは眉を潜めて首をかしげた。
「これはまだ難しいですね。しかし君なら、じきに理解できると思いますよ」
ヘルマンは目を細め、本を閉じる。
明日、錬金術ギルドの図書館から借りてくる本を頭の中でリストアップした。
図鑑に歴史書、数学書……幼児向けではなくとも難しすぎず、なるべく挿絵のたくさん入ったものがいい。
「あー、とー?」
シャルが今度は、棚に整頓されたフラスコやビーカーを指差す。
続いてヘルマンを指差し、首をかしげた。
「ええ、僕が錬金術の実験で使う道具です」
「しゃーる?も?」
自身を指差し、期待に満ちた目を向ける愛娘に、口元が勝手にほころぶ。
「ええ。君が望むなら、僕の知る全てを教えますよ」
「アハッ!」
シャルが顔をくしゃんと縮めて笑う。
計算された可愛い猫かぶり顔ではなく、実に子どもらしい素直な笑顔で。
借りてくる本のリストに錬金術の初歩入門書を追加し、ヘルマンは膝にチョコンと乗っているシャルを撫でた。絹糸より細い白銀の髪が、手に心地よい。
自分は幼い頃、こんな顔で笑った事があっただろうかと、ふと考えた。
記憶を引っ掻き回してみたが、どうにも覚えがない。
乳母が離職し、勝手によちよち出歩いても、叱ったり探したりする人はいなくなった。
離宮の奥で閉ざされた書庫を見つけた時、感動したことは覚えている。
でも、その時にヘルマンは一人きりで、傍には誰もいなかった。