I-2
「あいててて……」
男は、ふらつく足取りでバスから際りて来た。
降りた場所は町役場の前。役場から見た背景には、夏の深緑も鮮やかな、小高い峰々が連なっていた。
「此処まで六時間半……これから、あの山の向こうへ行くんだよな」
男は独り愚痴ると、頭のアルペン帽を取り、首に巻いた手拭いで滴る汗を拭いた。
背中の、舶来物らしき作りがしっかりした大きなリュックサックは、中身で一杯に膨れて重々しい。歩く度に、足元がふらついている。
徐に腕時計に目をやると、時刻は午後三時半を示していた。
(約束の時刻まで三十分か……)
男は役場の傍らで日射を避けると、リュックサックを下に降ろして上に腰掛ける。此処で時が来るのを待つ事にした。
「風が流れて、幾分過ごし易いな……」
周りの木々から聞こえる蝉時雨が、暑さを助長させているが、男は気にした様子も無く、心地よい風に身を委ねる。
そうして待っていた男の目の前に、左右のドアも無い、随分と年季の入った一台のオート三輪が停車した。
中の運転手は、助手席側から外を見て、役場の陰に座る男の姿を見つけた。
「おめえが吉岡さんか?」
何の飾りも無い、ぶっきらぼうな口調で呼ぶ声に、男はリュックサックを抱えて近付く。
「はい!僕が吉岡ですが」
「遅くなったな。乗ってくろ」
「こ、これで行くんですか……?」
吉岡と呼ばれた男は繁々とオート三輪を見た。お世辞にも立派と言えない古めかしい乗物で、これから向かう場所に辿り着けるのかと心配になった。
そんな吉岡の気持ちを察したのか、運転手は言った。
「心配要らねえよ。見た目よりエンジンはしっかりしてるし、何遍も行ってっから」
「そ、そうですか……」
そこまで言われては仕方がない。吉岡は覚悟を決めて、助手席へと乗り込んだ。
「荷物は荷台に乗せとけよ」
運転手にそう促されても、吉岡は首を横に振って拒み、
「こいつには、命の次に大事な物が入ってるんで……」
そう言って、リュックサックを股の間で挟み込む。
「じゃあ、なるべく揺らさないよう走っけど、しっかり押さえとけよ」
「はい!」
オート三輪は、役場の前をゆっくり発車した。
舗装されたばかりの緩かな登りは走り易く、気持ち良く突き進んで行く。吉岡はリュックサックを気にしながらも、流れ行く景色を楽しんでいた。
(どんな人なんだろう……)
それにもう一つ、これから起こりうる出来事を思うと、独り心を弾ませていた。
やがてオート三輪は舗装路を右に折れて、轍の残る狭路を登って行った。