『SWING UP!!』第16話-3
「それはまた、懐かしい夢を見ましたね」
泣き腫らした寝顔を見られて、葵は、誠治の腕の中で恥ずかしさに頬を赤くしていた。
「でも奇遇ですね。僕も、葵くんと会った頃の夢を見ていたのですよ」
そんな葵を優しく抱き締める誠治は、あの時とは違って、とても甘い香りのするその髪に、優しい接吻を贈っていた。
「………」
葵との出会いは、陳腐な言葉になるのだろうが、“奇跡”と言って良い。
不整脈を発症したばかりの誠治が当時、主治医の言うことも聞かず、習慣にしていた夜間のウォーキングを続けていた最中、気分が高揚するまま脚を伸ばしてみたところ、しなびた感じの無人駅を見つけたので、休憩がてら立ち寄ったのが全ての始まりだった。
最初は、幽霊を見たかと思った。それぐらい、葵の後姿は、あまりにもおどろおどろしいものだった。
だが、駅のホームに列車が入り込む寸前、狂ったような笑い声を上げたその瞬間、誠治は飛びついて、その手を掴みしめていた。そうでなければ、“赤い花火”を間近で見ることになっていた。
そして自分が、今まさに、“命を断とうとした人間”に、手を差し伸べているということも自覚した。そうなった以上は、相手の背負っているものを、自分の関わりとしなければならないことを、真剣に考えた。
臨床心理療法士を目指す誠治は、仁仙大学でその学業に励んでいる。そんな矢先、命を絶とうとしている人間と関わったのだから、なにか“運命”のようなものを、始めから葵に対して感じていたのだ。
『過去は、背負うものでも、振り切るものでもありませんよ』
『………』
『なぜならそれは、“あなた自身”になっているのですから』
『………』
『だからかな? 僕と貴女が、出会うことになったのは』
『………』
『というわけで、これからよろしくお願いします』
『………』
訳が分からない、と、いった様子で瞠目しながら、それでも、最後に葵が頷いてくれたとき、素直に誠治は嬉しかった。
その後のことは、流れに乗る形で全てを進めていった。
葵の家に行き、“汚物部屋”と化していた葵の住まいを、葵ともども綺麗にすることから、まずは始めた。居間に大量の現金の束があったことはさすがに驚いたが、それに頓着することもせず、誠治は家の掃除をまずは終わらせた。
葵が自分の元を離れたがらないので、彼女の部屋に連泊することになってしまったのだが、当時からシェアルームメイトであった六文銭孝彦には、事情の全てを話して、了解と同意を得た。彼も、家の掃除に協力をしてくれた。
次いで、失踪したという彼女の父親のことを警察に相談し、また、現在の葵の状況について、“離婚届”を置いて家を出て行ったという彼女の母親にも、何とか連絡を取ろうとしたのだが、いずれも結果は芳しくなかった。“時間が、必要になるだろう”とは、色々と骨を折ってくれた、六文銭の言葉である。
葵が、“パニック症候群”を発症したのは、この頃だった。警察との行き来を繰り返す中、突然、バスの中で挙動が怪しくなり、不意に口元を押さえたかと思うと、床の上に嘔吐物を撒き散らしてしまったのだ。
他にも、信号待ちの路上であったり、満員に近い電車の中であったり、葵は本当に唐突に具合を悪くして、“過呼吸”や“嘔吐”を繰り返し、ひどい時には“失禁”した。自律神経を侵すその症状が、かなりの重症であったことがわかる。
発症のたびに周囲を汚してしまい、悪意と蔑意が注がれる中、その背中を必死に抱えるようにして、誠治は葵を守り続けてきた。葵がどのような姿になろうとも、“責任を負う覚悟”を、彼は投げ出さなかった。
(自分の身体が、ままならない苦しみは、本当に辛いものだから…)
誠治は、不整脈によって大好きな野球を満足に出来なくなっていたから、葵が抱えてしまった心身の苦しみを自分の苦痛として、彼女に寄り添い続けることに、厭う気持ちも躊躇いも、なにもなかった。
そんな誠治に、葵が惹かれるのは当然であった。ひょっとしたらそれは、“依存”といってよかったかもしれない。
葵が、遠い親戚に家の処理の一切を任せ、身ひとつになって、誠治のいるシェアルームに上がりこんできたのは、その表れだった。しかも、残された一千万を基にして、塾通いをして勉強し直し、誠治の通う仁仙大学に進学までしてきたのである。