聖なる淫水(1)-1
(1)
坂崎悠介が妻、陽子を失ってから三年が過ぎた。悲しみは時が解決するという。しかしいくら時間が経過したとしても愛する者の面影は単なる映像ではない。思い出や悔恨のような複雑な形で心の襞の隅々まで入り込んでいて容易に消え去るものではない。たしかに心の傷の痛みを感じることはなくなった。ただそれは、癒えたといえるのかどうか。彼には現実の生活が過去を覆っているだけのような気がしていた。
思えば足かけ十年ほど病を背負っていたことになる。結婚して三年目にようやく授かった子供は流産した。
「二人の愛の証し。元気に生まれてきますように……」
毎晩寝るときにお腹を摩りながら祈っていた妻。待ち望んでいた妊娠がわかった時、嬉しさに瞳を潤ませて彼に報告した顔が忘れられない。
それだけにショックは並大抵ではなかった。かける言葉もなく、ただ妻を抱きしめることしか出来なかった。
ようやく失意から立ち直りかけた一年後、追い討ちをかけるように子宮がんが見つかった。その時妻は二十九歳である。若いだけに進行は早く、状況は微妙であった。
医師は摘出の判断を下した。
「あなたの子供が産めなくなるのよ」
涙をぽろぽろこぼしながら縋る陽子を説得するのは辛かった。
「摘出すれば転移の可能性はほとんどないんだって。新しい人生を考えよう。ずっと一緒にいることが大事だろう?」
時間をかけて切々と説いた。
頷いた彼女の本心はわからない。心から生きることを望んで選択したのか、彼の言葉に従っただけなのか、坂崎は今でも分からなかった。
退院後は一見平穏な生活が戻った。むしろ以前より活気があったかもしれない。妻を気遣ってこれまで以上に優しく接したのはもちろん、休みの日はできる限り出かけるようにした。だから変化のある日々となった。陽子も努めて明るく振る舞っていたようだ。
だが、どこかに隙間を感じていた。子供を産めなくなったという事実は消えるものではない。日常のふとした時にそのことが過って、ほんの束の間、心に風が吹く。
妻もきっとそうだったのだろう。表情に見せたことはなかったが、心に秘めて抱きしめていたにちがいない。
不幸は続いた。二年後の定期検診で今度は肺にガンが見つかったのだ。子宮ガンとは無関係の新たなものだという。しかも数か所に散らばっているため切除も難しいという診断に彼は愕然とした。
それからの抗がん剤投与は断続的に七年に及び、最期は肺炎を併発して陽子は逝った。覚悟を決める十分な時間があったことで彼は比較的冷静に事実を受け止めることができた。それは受け止めただけであって、気持ちの整理といえるものではなかったが。……
(2)
「お義兄さん、元気?」
義妹の真希子から電話があったのは七月半ばのことだ。
「珍しいね、真希ちゃん。ひさしぶり」
真希子は陽子と三つちがいだからたしか今年三十八になる。几帳面で控えめな陽子と正反対の性格で、少々ずぼらだが、何事にもあっけらかんとしたところのある明るさに彼は好感を持っていた。
「いまでも一人住まいなの?」
「そうだよ」
「不自由じゃない?」
「もうだいぶ慣れたよ」
「誰か食事を作ってくれる人がいたりして」
「そんなのいないよ。たまには真希ちゃん作ってくれよ」
軽口を言える気さくさがある。
「言ってくれればいつでも伺いますよ。ふふ……」
彼の両親は車で三十分もかからない所に住んでいる。陽子が死んでしばらくしてから、家に来たらどうかと母親から言われたことがある。だが新婚生活を構えた今のマンションを離れる気にはなれなかった。
真希子と話すのは三回忌の法要以来、半年振りである。陽子の病気のことから一通りの話を辿った。
「いろいろ思い出せば切りがないけど、仕方がないものね」
「そう……そういうことだね……」
この手の話は心の問題だから終わりがない。結局、溜息が話題を切り換える。
「実は、今日電話したのはね。お願いがあってなの」
真希子の癖で何か頼みごとがあると少し鼻にかかった甘えた声になる。陽子に教えられたのだが、その後気をつけていると何度かそんなことがあったと思い出した。
話を聞いてみると、下の娘の彩香が夏休みに東京へ遊びに行くことになったので三、四日泊めてくれないかというのだった。
「友達と行くんだけどね」
「何人来るの?」
子供は夏休みでもこっちは仕事がある。煩わしいが無下に返事も出来ない。
「彩香だけなのよ。二人で行くんだけど、その子は親戚の家に泊まれるんですって。門前仲町って所」
「ああ、うちから地下鉄で一本だよ」
「そうなのね。彩香が調べてた。その親戚でも彩香も一緒にって言ってくれてるようなんだけど、知らない家だしね。それに彩香が伯父さんの所がいいって言うもんだから、それでお願いできないかなって」
彩香一人と聞いて気が楽になったのはたしかだ。幼い頃から可愛がっていた子だ。彼女も坂崎によくなついて一緒に風呂に入ったり、寝たりしたものだ。
「でも、ぼくも仕事があるから朝早くて昼間はいないよ」
「もちろんよ。どうせ昼間は遊びに行くんだろうから。なるべくご迷惑かけないように言っておきますから」
「わかった。来る日が決まったらまた電話して。何もできないけど」
電話を切って、坂崎の胸に温かいものが広がってきた。
『伯父さんの所がいい』……
姪のその言葉が嬉しく、可愛いと思った。陽子の葬儀の時に見かけたが、その時は話をするどころではなかった。中学の制服姿が動き回っていたのを憶えている。
(夜は何か美味いものでもご馳走するか)
感じていないようでも一人暮らしの寂しさがやはりあったのかもしれない。人が来ることで何だか張りのようなものを感じて楽しくなってきた。