『ぬるま湯』-1
ただあの人がそばに居るだけで、隣にいてくれるだけでいい。なんて嘘くさいフレーズが、最近の歌詞や小説の中にはありふれているけど、私の場合は本当にそうなのだ。
それも、ほんの時々でいい。寂しい時や悲しい時、つらい時。そういう、ちょっと一人じゃあどうしようもない時に、ただ適当な距離で彼が居てくれればいい、それだけだ。会話もいらないし、触れなくてもいい。視線だっていらない。ただ、そこにいるという事実をこそ、私は必要としている。そんな気がする。
きっとこれは恋愛というものではないのだろう。恋ならもっと痛いはずだし、愛ならもっと優しいはずだ。あるいは私は、彼のことを好きですらないのかもしれない。私が必要としているのは「彼」ではなく「誰か」なのかもしれない。もちろん、それを確かめる勇気なんて私にはない。でも、そんなことを考えること自体が、なんだかとても不健全で、それは裏切りにも似ているとも思った。やっぱりこれは恋ではないのだ。恋には、こんなふうな余分な理性があってはいけないのだ。
何故か、ひどく泣きたくなった。ううん、自分を泣かせてやりたくなった。
下らない期待をこめてメールを打つ。
『今、暇?』
たったそれだけの文章だ。飾り気も色気も無い。その分、私の期待が叶う可能性も高くなるだろう。
しかし、2分もたたないうちに期待はあっさりと裏切られた。返信があまりにも早いこと。これは彼の長所であり欠点だ。
結局、私は泣くことができない。
『暇って言えば、暇だね。』
彼の打つ文章はいつも私を簡単に縛り上げる。短い一文の中に、彼なりの譲歩や遠慮、それに期待も込められていて、さらに私に逃げ出す余地さえも与えている。
私は彼の部屋に行くしかないのだ。私の意志で。
彼は、私と同じアパートに住んでいる。
彼の部屋は、私の部屋からいちばん遠いところにある。私の部屋は一階の左端。彼の部屋は二階の右端。ちょうど対角線上にある。この距離が、私は好きだ。すぐにでも訪ねられる近さだけど、それでいて、隣だとか向かいだとか、そんなふうに近すぎない。同じアパートの対角線、それが私と彼にとって適当な距離だと、私は思う。なんにせよ、適当であるべきなのだ。近すぎてもいけないし遠すぎてもいけない。甘すぎてもいけないし苦すぎてもいけない。よすぎてもいけないしわるすぎてもいけない。
つめたい、コンクリートの階段を一歩いっぽゆっくりとのぼりながら、私はいつもそんなことを考える。
「いらっしゃい。」
彼はいつもそう言って私を出迎える。私は、おじゃまします、とかそんなことは言わない。何も言わずに、ずかずかとあがりこむ。彼もそれ以上はしばらく何も言わない。
彼と私は、そのまま黙ってしばらく座っている。(テーブルとベッドの間、ベッドを背もたれ代わりにして座るのが私の定位置だ。)この沈黙が、私は好きだ。確実に終わるし、終わるタイミングも感覚でなんとなく分かる。そういう種類の沈黙は、不思議と心地いい。
その沈黙を終わらせるのは決まって彼のほうだ。
「今日はどうしたの?」
その時の台詞はいつも私を幸せな気分にさせて、その半分くらい悲しい気分にさせる。どんな類の台詞であれ。
理由なんて無くても、私はここに来る。そのことくらい彼は知っているはずだ。
「話したかったから。」
ほら、嘘をつくはめになった。
彼はその嘘を簡単に見抜いて、いつものように軽く微笑む。
そして、キッチンへ行ってお茶を入れてくれる。自分の分はインスタントのコーヒー、私の分は砂糖たっぷりの紅茶。二人とも猫舌だから全部飲み終わるのに時間がかかる。だから、彼がこうしてお茶を出してくれる時はとても嬉しい。