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『ぬるま湯』
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『ぬるま湯』-2

私は、何も言わずに、湯気の舞うカップを受け取る。
「ありがとう、って言わないで。」
いつだったか彼に言われた。
「どうして?」
私が聞き返すと。
「ありがとうって漢字でこう書くから。」
言いながら、メモ用紙の切れ端に『有り難う』とヘタな字で書いた。
「俺がお前になにかしてやるのって、ぜんぜん『有り難く』なんてないだろ。」
ひょっとしたら、それは皮肉で言っていたのかもしれないけど、私はそれがたまらなく嬉しかった。
彼の携帯の着信音で、ふと我にかえった。メールじゃなくて電話だった。
「もしもし。」
私の隣から動かないまま、彼は誰かと話をする。その会話はちゃんと私の耳にも聞こえているけど、私はそれを聞いていない。
彼は友人が多い。男女問わずに。こんなふうに、私といる時に電話がかかってくることも、結構ある。それでも、私はそれを全然迷惑だとか思わないでいる。普通なら、邪魔された、とか思ってしまうのだろうか。
「いや、今ちょっと忙しいから。」
そう言って彼は電話を切る。『今ちょっと忙しいから。』なんだかとても満たされる言葉だ。
「誰からだった?」
私は聞く。
「同じ学部の友達。」
「女の人?」
「うん。」
ふうん、と私はこたえる。こんな時、私は自分がどうにかしてるんじゃないかと思う。
嫉妬とか、いらだちとか、そういうものが湧いてきたりしないのだ。ひょっとしたら、今彼に電話をしてきた子は、彼のことが好きで、それに今私が彼のそばにいることに気付いて、そして物凄く嫉妬しているかもしれない。そんなおかしな想像をしてみた。少し悔しかった。
私はもっとこどもみたいに駄々をこねたりわめき散らしたりしたっていいんじゃないかと思う。
彼と一緒にいると、私は栓を抜かれてしまったみたいになる。いろんな、ややこしいなんやかやが、静かに優しく流れていってしまって、どうしようもなく溢れ出してしまうことが無くなるのだ。どんなに、赤茶けた濁った水が流れ込んできたとしても、彼がいるかぎり栓は抜けっぱなしだから、それは穏やかな渦を巻いて、すんなりと流れていってしまう。
「ねえ、知ってる?あなたのせいで私はいつも泣きそこねるの。」
不満そうな声を出したつもりだったけど、やっぱり栓は抜けっぱなしだ。そんな声が出る。
「知らなかった。」
当然知っているよ。というような顔で、彼は言う。
「でも、泣かないで済むのならそれでいいんじゃないの?」
違う。泣かないで済む、じゃない。泣くことを取り上げられるの。
そんなこと言っても分かるはずがないから、私はもっと具体的に言った。
「私はあなたのことで泣いたり痛がったりしたいのよ。多分。」
そうやって、自分の気持ちを確認できたらいいと思う。
私は今、ちょうど自分の体温と同じくらいの心地いいぬるま湯に、首まで浸かっているような幸せに居るのだ。
「それはいやだな。」
彼は言う。
「俺のことで、泣いたりなんかしてほしくない。」
その言葉が、やさしさなんかじゃないから、私は安心する。
「いやだなんて、なんだかわがままみたいに言うのね。」
「わがままだからだよ。」
彼は微笑む。
まいったな。彼のわがままなんて、私が聞けないはずがないのだ。やっぱり、今日も私の負けだ。
「ゆず。」
彼は子供を呼びつけるような声で私を呼ぶ。
私はそれにこたえる代わりに、私たちの座った間隔を、50cmから5cmに変える。
そしたら彼は私の頭をなでる。それこそ、子供にするみたいに。私は最初、それがあまり好きじゃなかった。なんだかむずむずしたから、私は首をすぼませたり肩をよじったりしていた。
「猫みたいだ。」
そんな私に彼はそう言った。今は、頭をなでられるのは好きだ。


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