縄灯(後編)-9
「あんた、キジマさんの知り合いかい…」
知らないうちに、背後に近寄ってきた腰の曲がった老婆が、私に声をかけた。
「えっ…いや…」
「ここが火事になって、キジマさんが亡くなってから、もう、二十数年近くになるか…不審火
で女といっしょに焼け死ぬなんて、まったく憐れな男だよ…」
そう言いながら、老婆は手にした小さな白菊をお墓に添えた。そのとき、頭上の樹木のなかか
ら鳥がばさっと音をたて空へ舞い上がっていく。
炎に灼き焦がされる黒々とした記憶が甦ってくる…。私の中からとぎすましたような薄青い鬼
の嘲笑が震撼とした性器の空洞に木霊し、私であって私でないものがふわりと浮遊してくる。
そのとき、私の性器の奥がひき搾られるように重苦しくゆがんできたのだ…。
生前の母は、高校を卒業して家を出ようとする私あてに一通の手紙を残していた。でも私はこ
れまでその手紙の封を切ることはなかった。私はあることを知ることに躊躇っていた。母が私
に告げようとすることは、ただひとつのことしかないと思っていた。
私はキジマと母のお墓の前に佇みながら、手にしたハンドバッグの中から色褪せたその手紙を
取り出す。そしてこれまで決して開けることのなかった手紙の封をゆっくりと切った。
手紙を手にした私の指が小刻み震え、綴られた短い文字が瞳の中で潤み滲んでくる…。
私は何も知らなかった…そして、おそらくキジマも…。ただ、死んだ母だけが知っていたのだ。
…あなたの父親の名前 木島重蔵…
二週間後 …
鬼の啼き声が、どこからか森閑とした暗闇のなかから伝わってくる。死霊の影のような樹々
が何本も絡まる林を、雲のあいだから洩れた淡い月の灯りが幽艶に包み込む。
あの屋敷があった敷地に入り込んだ私は、彷徨うように鬱蒼と茂った林の中をどこまでも
歩いていく。そして黒々とした葉を生い茂らせた一本の樹木の太い枝を見上げる。あらかじ
めこの樹木の陰に用意していた踏み台用の古い木箱を枝の真下に置く。夜風が微かに吹くと
小枝が身悶えをするようにざわざわと揺れ、湿った空気が私の頬を笑いながら撫でていく。
私は手にした紙袋から縄束を取り出し、木箱を踏み台にして太い枝に縄を掛ける。だらりと
垂れ下がった縄先で丸い輪をつくり縄尻をしっかりと結んだ。不気味な薄笑いを湛えたよう
な縄がゆがんだ楕円を描き、ぶらりと垂れ下がる。
母に欺かれ、父に犯された私… そして、ふたりを焼き殺した私のなかの鬼…
母は私が生まれる前から、キジマという男と関係をもっていたのだ。そしてキジマの子を
孕んだ。それが私だった。おそらくキジマは、私がキジマの子供であることを母から知らさ
れていなかったのだ。そして母は、十七歳の私が父親であるキジマに犯されるのを目の前に、
ただ笑っていただけだった…。母が孕んだものこそ、鬼だったのだ…。
私は木箱からいったん降りると着ていた薄い水色のワンピースを脱ぎ捨てる。下着はつけて
いなかった。生まれたままの裸身の肌に生あたたかい風がねっとりとまとわりつく。風が止
まると静寂に溶けきった夜気が陰毛をなびかせながら性器の奥に忍び寄ってくる。
もうすぐなのだ…私のなかの鬼が最後の快楽にのたうつのも…。