その(四)-3
舞子が去ってみると自分には求めるものがないことに気づいた。
打ち込むもの、夢中になれるもの、これといって何もない。部活には入っていないし、勉強にも身が入らない。遊ぶことにしても同年代が興味をもつことをほとんどしていない。
いったい何をしていたんだろうと考えるまでもなく、そこには舞子の存在があった。無理もない。十四歳で彼女と結ばれ、以後三年近くの間性愛の蜜の中に浸かり続けていたのだ。それも弾みの行為ではなく互いに惹かれ合って確認したのである。
(舞子……)
改めて彼女とともにいた、彼女だけを想っていた時間だったことに驚く。
それだけに自分に何も告げずに渡米した舞子には不信感が芽生え、日を追うごとに大きくなっていった。
結婚まで口にした彼女の本心が理解できない。
(大学を落ちたから留学を選んだのか?)
そうではなくて単に外国に憧れをもっていただけなのではないか。英語が得意だからきっとそうだ。言い出せなくて黙っていたんだ。……
(ぼくよりもその方が大事だったんだ……)
疑念だけが膨らんでいった。
学校も落ち着ける場所ではなかった。厭なことは一つもないのに満足するものがない。クラスメイトと話をしていても何かがしっくりしない。
あとから思い至ったことだが、私はまだ心身未熟な時期に過激な性体験を経たことによって心のどこかが歪んでしまったのではないだろうか。少なくとも思春期の想い広がる性への熟成期を一気に飛び越えてしまった感がある。それはやはり正常なものではないだろう。
クラスに栗田淳という男がいた。口数が少なく、よく一人で本を読んでいたが、話しかけると無表情のままぽつぽつと応じる醒めた雰囲気をもっていた。
私が彼に近づいたのは感覚的に自分と同じものを感じたからかもしれない。
(大人の感覚……)
もっと直截的にいえば、
(女を知っている……)
そんな気がしていた。
栗田も部活に入っていなかったので帰る時間が一緒になることが多く、そんな時は駅まで連れ立って話すようになった。
「大学は決めたのか?」
会話はたいてい私から始まった。
「いや、君は?」
「まだ。何だかそんな気になれなくて」
「そう。ぼくはたぶん行かないと思う」
「就職するのか?」
「専門学校へ行きたいんだ。イラストの。だけどわからない。家は母子家庭だから」
「そうなんだ……」
だいたいそんなぶつ切りの会話をいくつかしながら歩いた。深く詮索はしなかった。駅に着くと方向が違うので顔を見合せて頷くだけで別れた。
ある日、いつものように改札を入って別れると、栗田が呼びかけてきた。
「これから家に来ないか?」
「うん。いいけど」
この日は土曜日で、しかも生徒総会があっていつもより時間が早かった。
「どの辺なんだ?」
「○○町だからそんなにかからない」
意外だった。勝手な思い込みだが、自分の生活を見せるような男とは思っていなかったのだ。
「狭い所だけど」
「うちだってそうだよ」
二駅先で降り、都県境を流れる川の土手近くに栗田の家はあった。モルタル造りの古い二階建てアパートである。
一階の角部屋のカギを開けながら、
「二階に母親がいるんだ」
二部屋借りていると言った。
六畳一間の1DK。キッチンには小さな冷蔵庫と、コップが一つしかなかった。
「狭いだろ?」
「まあ、ひとりなら」
「親が夜の仕事だから」
訊かれもしないのに栗田はよく喋った。
母親が帰ってくるのは夜中の二時か三時頃でそのまま昼過ぎまで寝ている。だから二部屋にしたのだという。
「ぼくも朝、気にしなくていいからね」
「そうか」
食事は作っておいてくれるので夜二階に食べに行くのだという。
「それじゃ一緒に食べることがないんだな」
「そうだね。朝は食べないで出ちゃうし」
「顔は合せないのか?」
「土日は休みだから、今日はいる」
栗田は目を上に向け、少し言い淀んでから、
「今日、泊ってくれないか?」
「泊まる?」
私が聞き返したのは、突然だったこともあるが、栗田の言葉を頭の中で反芻したからである。
(泊ってくれないか……)
まるで頼んでいる言い方である。
「無理かな」
「無理ってことはないけど……」
「家には電話すればいいだろう?」
「ああ。うるさいわけじゃない」
「じゃ決まりだ」
栗田は珍しく笑顔を見せた。
その笑顔を見て私が憶測をしたのは彼の日常の生活である。父親もいない、たった二人きりの母親ともふだん顔も合わせない。学校でも親しい友人はいないようだし、もし自分だったら耐えられるだろうか。孤独で、寂しくて……。そんな中、家に呼んで泊めようと思った『友人』が自分だったのなら喜んで付き合おう。栗田一人の部屋だということも気遣いがなくてよかった。