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【ミステリー その他小説】

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別れ-1

 幸はおそらく行き倒れの氏名不詳の身元不明者として葬られたのであろう。もし幸が幸として葬られたのであれば、恵子は今頃刑務所の中にいる。当然ながら男と幸の今の生活は無い。今の男と恵子の生活の全てはあの寒い冬の朝、力つきてしまった幸が呉れた物なのだ。

 確かに恵子にはこの十五年の間、名を偽り、姿を変えてじっと息を潜める必要があったろう。が、しかし、時効を迎える明日からの恵子には、年を偽り死ぬまで口の利けない幸という女を演じ無ければならない理由など何一つ無いのだ。

 和尚の遺品を覗いた五年前のあの日、男は恵子が無事に時効を迎えることが出来たならば幸を日暮恵子として送り出すことにきめていた。この黄色いノートの中を見てしまったあの日から今日までの五年という年月は幸という女を日暮恵子という女に塗り替えるために男自身が必要とした時間だったのかもしれない。

 日暮恵子が恵子としてこの世に舞い戻るならば、幸という女はその魂の在るところに帰してやらねばならぬ。十五年の至福の時を幸と、そして恵子という二人の女に贈られた男には、この二人を傷つけることなく、その在るべきところに送り届けることが、この世で残されたたった一つの仕事だったのかもしれない。

 初めて幸と出会ったあの日のように、男は恵子の体の隅々を洗う。今は程良く脂肪の付いたその胸に、あの日にはくっきりとあばらの骨が浮き出ていた。さわるだけでぼろぼろ皮膚から剥がれ落ちたあの垢を今はどこにも見つけることが出来ない。

 恐怖と疲労で半分ほど白くなったまま、ずっと変わることの無かった恵子の髪をすっかり黒く染め上げたとき、幸は日暮恵子になっていた。わずかに残る幸の名残・・・前歯の欠けたその口にそっと唇を寄せながら男はつぶやいていた。

「さよなら、幸」



 島の眠りは早い。獣だけがうごめく闇の中を十五年前、歩いて渡った三つの橋を今度は車で遡る。さらに一時間を費やし、県境の町の駅でその日の最終の新幹線に恵子を乗せた。

 たとえ明るい日の光の下で今の恵子を島人が見たところで、其れが幸と呼ばれた女と同じ女だとは誰一人気づかないであろう。が、今、恵子を島の誰一人にも見られるわけにはいかなかった。恵子を乗せた新幹線が闇の中に吸い込まれていった。 

 寺に戻り、日が昇るのを待って、男は駐在所に駆け込んだ。

”朝餉の支度をしていた幸が裏の畑に野菜を取りに行ったまま帰ってこない。このところ続いた雨で水かさを増した島の用水路のゆるんだ土手が崩れている。きっと幸が足を滑らせたに違いない”・・・・と。

 島はしばらくの間、蜂の巣をつついたようになった。在るはずもない幸の骸を探すために島中の人が用水路を探り、その先の入り江に潜った。

 「幸さんは沖に流されてしまったかもしれん。ここのところ雨が多くて潮も随分と流れが速かったからな。残念だがあがらんかもしれんて」

 申し訳なさそうに駐在はそう言うと、失踪届に印鑑を押させ、寺を後にした。

何事もなく三年過ぎれば幸は男の戸籍から自動的に抹消される。今度こそ本当に幸という名前はその魂の元に帰ることが出来る。


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