高橋との出会い-1
その男は、会議室の異様な光景に眉一つ動かさなかった。
ガタガタに乱れた事務机と床に散乱する伝票や書類。
そしてその真ん中で、下半身を露出した俺。
泣きながら半裸でうずくまる麻理の髪はボサボサにほどけ、頬は無惨に赤く腫れ上がっている。
誰が見ても、俺が暴力的に麻理を蹂躙したことは明らかだった。
「あんた確か……リメイクミシンの兄ちゃんやな」
男が驚くほど冷静な口調でそう言った。
いかにもやり手の商人を思わせる、押しの強い関西訛り。
さほど体格が大きいわけではないが、その男には何故か異様なほどの威圧感があった。
これほど大きな店の支配人が、俺のような出入りの業者の一担当者の顔を覚えているということに、俺は軽い驚きを感じた。
こうなればもうしらばっくれることは出来ない。
人が来るかもしれないということぐらい、いくらでも予想が出来たはずなのに、柄にもなく感情的になって我を忘れてしまっていたことを、俺は今更ながら後悔した。
「とりあえず、このままやとマズイわ」
男は素早い動作でスーツのジャケットを脱いで麻理の肩に掛けると、ワイシャツの胸ポケットから一枚の名刺を取り出して俺に手渡した。
「今はこの状況を他のもんに知られたないさかい、一旦あんたは会社のほうへ戻ってくれへんか？」
名刺には「ＴデパートＳ支店 支配人 高橋学」と印刷されており、その下に手書きで携帯電話の番号が書かれていた。
「今日の晩９時に、ここへ電話しい。こみいった話はそれからや」
言い訳出来るような状況ではない。
Ｔデパートとの取り引きは解消され、俺はクビになるだろう。
それでも構わない───と思った。
もとより会社にも仕事にも執着心などない。
俺は黙ってその小さな紙切れを受け取ると、会議室を後にした。
───────
会社に戻った俺は、社長に裁断ミスのトラブルがあったことだけを報告した。
「そのお客さんがどうしても代わりの商品を探せって言ってるらしいんですが、海外ブランドの限定品らしくて……確保できないみたいなんです」
俺の報告に、社長はあからさまに嫌そうな顔をした。
「ったく……なんだよ使えねぇなあ。Ｔデパートには気をつけろってあれほど言ってただろうが！今度こそ契約切られるぞマジで」
「……すみません……そのことで今晩向こうの支配人に時間とるように言われてるんで……後でこっちから連絡します」
そもそもこの社長は二代目のボンボンで、こういう面倒なことからは真っ先に逃げるタイプだ。
文句だけは人一倍言うが、自らが交渉に乗り出す気などさらさらないのはよくわかっていた。
「あそこに切られたらうちはヤバいんだよ。お前の首と引き換えにでも契約だけは続行してもらえるように頼んでこい！」
「……わかりました……」
入社して二年間、俺は内田たちよりよほど真面目に仕事をやってきたつもりだ。
複雑な技術も、アパレルの知識も、今では社歴の長い職人たちに引けを取らないだけの自信がある。
麻理のことがバレれば話は別だが、裁断ミスの件だけで本気で俺をクビにしてもいいと思っているとしたら、この社長は二年間一体俺の何を見ていたのだろう。
恐らく内田たちに何かつまらない嘘を吹き込まれたのだろうが、それを社長が鵜呑みにしているであろうことに俺は失望した。
───────
「Ｔデパートとトラブってるみたいだな」
加工場に戻ってきた俺を、内田たちがニヤニヤしながら取り囲んだ。
最近では俺に対する嫌がらせもあからさまになってきている。
相手になっても腹が立つだけなのはわかりきっているから、俺は素知らぬ顔で間を通り過ぎようとした。
「お前ごときのクビぐらいでなんとかなりゃいいけどなぁ？支配人の靴舐める練習でもしていったらどうだよ。ホラ」
俺の前に内田がいきなり足を突き出したため、俺はそれに蹴つまずいて床に転んだ。
わざとらしく床に落ちていた裁ちばさみが顔に当たって目の下が切れ、つうっと血が流れた。
一つ間違えば失明していたかもしれない。
イタズラにしては度がすぎていると思った。
「ちゃんと前見て歩けよ。あぶねぇなあ！」
内田は大声で悪態をつきながら、俺の顔目掛けて唾を吐いてきた。
さすがにイラっときて俺が睨みつけると、内田は低い声で憎々しげにこう言った。
「ちょっと出来るようになったからって、いい気になってるからこういう目にあうんだ。もし契約切られたらお前のせいだからな」
───くだらない。
男の嫉妬とはこんなに陰湿で厄介なものなのだろうか。
何に対しても執着心のない俺には理解し難く、そんな内田が哀れにさえ感じられる。
俺はのろのろと立ち上がると、落ちていたハサミを拾って内田に手渡しながら静かにこう言った。
「───切られなければいいんでしょう」
─────
そうは言ったものの、正直俺に勝算はなかった。
裁断ミスだけの問題ならまだしも、あの状況を見られていては、契約解除どころか警察に訴えられてもおかしくはない。
しかしこのまま内田の思う壺にはまってしまうというのも面白くなかった。
とりあえずは高橋の出方を見ようと思った。