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悲しい深海魚
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忍(しのぶ)から一枝(ひとえ)へ-1

 私達の結婚はささやかなものであった。毎年初詣に行っていた縁結びの神様へお参りし、直ぐ傍の写真館で普段着のままの記念写真。会社の皆が小宴を設けてくれた。

 忍という名は勿論泡姫としての源治名である。本名は一枝である。

 忍としての夜の生活に加え、保険の外交。家庭では一枝として母、嫁、そして妻。新たな負担が忍にのしかかっていく。忍は愚痴一つこぼさず全てをテキパキとこなしていった。忍を支えていたのは家族愛のみである。忍にとって家族は全てに優先していた。

 養子縁組の上、私の子供となった二人の娘達も徐々に新しい生活に馴染んでいった。この家にやってきた時には中学三年と高校二年生であった二人が今では高校の一年と三年生。上の子は来年卒業である。夏には就職先も決まっていた。この年の冬、年の瀬も押し詰まった年末に一つの事件が起こった。

 夜の仕事を休み、一枝は年末の大掃除、正月の準備といそがしく立ち振る舞っていた。

 私が仕事に出る時、真っ先に飛びついてくるシロがその日に限って姿を見せない。不思議に思い犬小屋を覗いてみた。

 シロが犬小屋の中で舌を出してあえいでいた。明らかにおかしい。私は一枝を呼んだ。

「シロ、どうしたのシロ」

 一枝の呼びかけにもシロは力なく目を瞬くだけであった。

「直ぐシロを病院に連れてって。私支度するから」



 会社には昼からの出勤を伝え、私はシロを動病院へと運んだ。動物病院に着くまで忍は後部座席でシロを抱きしめ、力なくぐったりとしているシロの頭を涙を流しながらなで続けていた。

「何か農薬のような毒物を食べていますね。心当たりはありませんか」

 そういえばシロの犬小屋の傍に食べかけのパンが落ちていた。忍はシロにドッグフードしか与えない。あれが原因だったのかもしれない。最近、家の近くでは農薬入りの食べ物を投げこむ悪質ないたずらが頻発していた。

「内臓、特に腎臓が激しく痛んでいます。しばらく預かって治療してみますが助からないかもしれません。覚悟だけはして置いてください」

 辛い宣告であった。動物病院を後にする私達、特に忍は打ちひしがれていた。

 正月を動物病院で過ごしたシロが我が家に戻ってきた。もう助からない、家で最後を迎えさせてくださいと医者に言われ私達はシロを連れ帰った。

 玄関の中に真新しい毛布を敷きシロを横たえさせた。シロは力なく目を閉じてあえいでいるだけであった。もう長くない事が誰の目にも明らかであった。

 家の中とはいえ玄関である。一月の夜は深深と冷え込む。一枝は毛布を被り、シロを抱きしめて玄関から一歩も動かなかった。いくら布団で寝るようにと促しても首を横に振るだけである。私は一枝の気の済むに任せるしかなかった。1日、2日、そして・・・

 家へ戻ってから三日目の朝方、シロは一枝の腕の中で静かに息を引き取った。大型犬のシロを庭先に埋葬する訳にはいかず、一枝は私にシロの亡骸を市の火葬場に運ばせた。ここでは大型ペットの火葬もしてくれる事を一枝は知っていた。いや、一枝はシロを家族として見送りたかったのだ。火葬場の煙突から上る白い煙を見上げながら一枝がつぶやいた。

「シロ、やっと楽になったね」



 私達が家族になって初めて家族を失った。特に一枝にとってはショッキングな出来事であった。彼女に人間も動物も無い。昨日までは全く無関係であっても、一旦家族と認めれば全力で家族を守る、そして家族を犯すものには全力で牙をむく。

 一枝の家族に対する愛情は決してベタベタとした類のものではない。むしろ冷ややかであり突き放しているように見えることがある。娘達に対してもそれは例外ではない。娘達が欲しがるものを必要だと思えば惜しげもなく与えるが、後は何の干渉もしない。しかしそれを無責任に放棄したときの一枝の怒りは半端ではないのである。娘達もそんな一枝の気性を知り尽くしているから無闇に欲しがりもしないのであるが。ただ自分が必要だと思ったことを問答無用で押し付ける強引さに、家族の皆が振り回されていた。

「一枝、そろそろ夜の仕事を止めて保険の仕事だけにしないか」

 その頃、会社全体の統括という立場にいた私の年収は軽く一千万を超えていた。家は借家である。住宅ローンの負担も無い。普通に生活する分には何の不自由も無いはずであった。

 一枝が私の妻になって以来、一枝の店への送りは私の仕事として復活していた。一枝は私の帰りを待って仕事に出かける。朝は始発の電車で帰ってくる忍と私の会話は送りの車の中に限られていた。

「私も考えている。もう若くないからこの仕事も限界だからね。あなたの立場もあるし、万一あなたの知り合いが偶然私の店に来ないとも限らない。そうしなきゃいけないとは思っているけどまだ借金が残っているの。もう少し待って。借金のめどが立ったら直ぐにでもしまいにするから」

 そんな会話が車の中で繰り返された。

 一枝のほてりを静めるために欠かせなかった私達の毎日の交わりも久しく途絶えていた。一枝が家に帰ってくる時間には私は仕事に出ているのだから。


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