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悲しい深海魚
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T-1

 日が沈み人が家路に着く頃、この街のネオンに赤や青の火が灯る。その怪しげな明かりに引き寄せられるように多くの人達が集まってくる。

 雨が歩道を濡らしている。水の浮いた漆黒のアスファルトがまるで深い海の底のように見える。その深い海の底に映る極彩色のネオンが色鮮やかな深海魚の舞に見えた。

 五百メートル四方の狭い地域に二千店舗以上の店が集まるこの街を三本の路が南北に走る。  西よりを流川通り、 真ん中を薬研掘通り、 そして東の端を弥生町通り。

 この町の代名詞にもなっている流川の通りはひときわ明るい、早い時間から多くの人が溢れている。会社帰りのサラリーマン達が、家族連れが、そして若者達が又明日が訪れる事を決して疑わない笑顔を見せて流れている。
 薬研堀の通りには流川の喧騒は無い。ちょっと疲れた大人達が、ただ静かに、わが身と心を癒してくれる隠れ家に歩を進める。
 この二つの通りとは違って、弥生町の通りには人影が少ない。しかしこの薄暗い通りには男と女の濃密で秘密めかした匂いが満ち溢れている。男と女はまるで1ミリの隙間さえ空けるのが惜しいとでも言うように、しっかりと抱き合いながら歩く。まるで明かりを避けるかのように。

 この薬研堀通りと弥生町の通りにはさまれた、華やかな明かりなどほとんど無い暗がりの一角にそこは突然現れる。油が満たされたような重い空気が辺りを支配している。まるで深海に突然現れた竜宮城のように、極彩色のネオンはあくまで静かに、そして怪しく点(とも)る。すっかり掃き清められ、いつも打ち水がされた通りに面した各店の前にはまるで申し合わせたかのように清めの塩が盛られている。
 ここは男が体の欲望と飢えをそして心の渇きを満たす一夜限りの性の不夜城。

 あの時、私はボロボロの体と心を抱えて、この深海に迷い込んだ。ここしか来るところが無かった



 木立がざわめいている。その音が耳について眠れないでいた。いや、それだけではなく昼間聞いた子供達の甲高い声が耳から離れなかった。
 
 正月が近い、それにクリスマスも直前に迫っていた。子供達が冬休みに入った最初の日曜日の店は親子連れの客でごった返していた。客の対応に追われ遅い昼食を取る控え室に子供達の甲高い声、子供を呼ぶ母親、そして父親の声が容赦なく入り込んでくる。幸せに満ちたその声が私にはどれもが責めの礫(つぶて)のように思われた。

 建築設計事務所勤務を経て独立を果たし、五年ほど経った一年前、四人の子供を残し妻が突然失踪した。10歳も年下の同僚アルバイト学生との火遊びが発覚した上での失踪であった。一番下の子供は未だ母親のおっぱいが恋しい一歳半程の幼子。突然姿を消した母親を探し、不安と恋しさで一日中泣いていた。いくら泣いても母親は現れてくれないとあきらめが支配し、以前程泣かなくなった頃、妻が突然帰ってきた。失踪から半年が経っていた。

 母恋しさを押し隠し、我慢を重ねていた子供達の堰が一気に壊れた。幼い子供達に再び母親と別れるだけの忍耐力は残っていなかった。 妻もまた、子供を自分の手にするためだけに戻ってきたのだ。なすすべも無く、妻と別れ、子供達も失った。

 ストレスが一気に襲う。体と共に精神にも変調をきたした。図面台の前に座ると激しい鼓動が始まり、めまいと吐き気が襲うようになった。次第に目の焦点までもが定まらなくなり一本の線を引くのでさえ困難になっていた。それ以前にデザインのイメージが全く湧かなくなっていた。自分自身が全てに絶望しているのだ、人間の幸せや喜びを包み込む建築というもののイメージなど湧くはずもなかった。
精神科の医者は私の自殺を恐れた。室内に篭り考え込むという設計の仕事から、陽光の元で体を使い、汗を流す仕事をするように勧めた。

そんな時、私の事情を知る顧客の一人が手を差し伸べてくれた。彼はこの町で最も大きい郊外型の園芸店を経営していた。彼の店をデザインした事で親交があったのだ。
彼に請われ私は新たな道を歩む事になる。私は既に三十五歳になっていた。



 毎日の激しい力仕事と息つく暇も無い忙しい毎日が私を救ってくれた。半年も経つと私を包んでいたストレスの衣が一枚、又一枚と剥がれ、このごろではあの忌まわしい激しい動悸や嘔吐からは解放されていた。一時薄れた視力も以前程ではないが戻ってきた。しかし、昼間聞いた幸せな家族の声があの忌まわしい記憶を呼び起こし、同時に、子供恋しさ、人恋しさへと導く。救いを求めた酒の酔いもとっくに醒めている。

 暖かいはずの部屋内の自分の身体も心も冷え切っている。木枯らしに大きく揺らぐ木々の向こうの街の明かりがやけに暖かく見える。家を飛び出し、街の明かりを求めてひたすらアクセルを踏んでいた。

 暖かく見えたはずの街の何処にも居場所を見つける事が出来ない。あても無くさまよい、そして重い空気が支配するこの一角に迷い込んだ。今まで一度たりとも近寄った事のない場所であったが、怪しいネオンの明かりがまるで集蛾灯のように私を引き寄せた。この一角が男の性の処理をする場所である事を知ってはいたが入るつもりは無かった

 「お決まりです?」
 「いや、決めていない」

  一軒の店の前の暗がりから黒服の男が突然現れた。強引に誘うでもなくごく静かな口調である。この晩、この街で始めて交わした会話である。

 「お入り下さい、直ぐにご用意いたします」

 余分な誘いの言葉など一切無く、まるで私がこの店に入るのが当然のように黒服の男は店内に誘(いざな)った。何故か私も何の抵抗も無く後についた。

 店内はあくまでも清潔で静かである。柔らかなコロンの匂いが漂い、静かなメロディが流れている。暗すぎない照明の明かりも好ましかった。。


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