『詠子の恋』-4
「それが、文学少女たる須野原詠子の、恋の始まりだった」
「勝手に文章、つけないでよ」
何処かの誰かが怒るわよ、と、何処かの誰かに言うでもなく、何処かの誰かのそんな心を、何処かの誰かに代わって、詠子は代弁した。
「まあ、でも、本のムシだった女の子が、スポーツ男子に恋をするっていうのは、定番で、いかにも、あんたらしいかもねぇ」
「だから……」
恋なんて、と、言いかけて、詠子は言葉を詰まらせた。それを口にしてしまうことが、無意識に憚られたのである。
「………」
その感情の根ざすところが、吉川の姿形にあるのだとしたら、認めないわけにはいかなくなってしまった。
「……恋、してるのかな?」
「だから、そうだってば!」
手にしたグラスのライム・ハイを傾けて、桃子は苦笑していた。
「まあ、でも、さっすが“春”よね。どこもかしこも、ピンクな空気が満載で、独り身のあたしとしては、あてられて、酔っちゃいそうだわ」
…酔っ払っているのは、既に缶で三本も空けたチューハイのせいだと思います。
(うっさい)
…はい、すみません。
「あの、堅物の由美にもカレシができてさぁ。たまの休みがあったりするとさ、カレシのアパートに、掃除とか洗濯とか料理とか、めっちゃ尽くしに行ってるんだよ。寮のルームメイトたるあたしに、ちょっとは遠慮しなさいってモンよね」
ぶつぶつ言いながらも、桃子が嬉しそうな様子を見せているのは、堅物ながらも親友の柏木由美が、カレシが出来て元気になったことを喜んでいるからだ。
「あの一件以来、由美、落ち込みやすくなってたんだけど、それが良くなったってことは、いいオトコを見つけたってことだからね」
言いながら、四本目の今度はカルピス・ハイを、グラスに注ぐ桃子であった。
「今日も外泊届け出して出かけたから、カレシのアパートに行ってるんだろうけど……」
ふと、時計を目にする桃子。既に日付は変わっていて、深夜独特の静けさが町中を覆っている時間である。
「いまごろ、ズッコンバッコンしてるんじゃないかな」
「ぶっ」
古典的かつ露骨な表現に、詠子は吹き出してしまった。幸い、ウーロン茶は口に含む寸前だったので、場を汚しはしなかったが、油断大敵である。
「桃子、品がないわ」
「じゃあ、詠子なら、なんていう?」
「え、えっと……」
思わぬ逆襲に、詠子が顔を火照らせる。いくら気のおけない女同士とは言え、艶かしい言葉はやはり、恥ずかしいのだ。
「ひ、“秘め事”とか?」
「うわあ、お上品。あ、でも、“ヒメゴト”ってカタカナにすると、エロいかもしれないね」
「それは、どうかな……」
むしろ、平仮名の“ひめごと”の方が、エロスを感じる気がするけど…。と、詠子は、埒もないことを考えてみた。
(でも、あの由美が、ね……)
桃子の言うように、堅物の由美が彼氏と“ズッコンバッコン”している様を、詠子は想像してしまう。高校時代、やはり、桃子と同じようにクラスが3年間一緒だったこともあって、由美のことは良く知っているし、桃子と同じく気のおけないクラスメイトでもあったから、品行方正を形にしたような彼女が、男の腕に抱かれて嬌声を挙げている様子は、どうにも信じられなかった。
「……話が、逸れたわね」
「うっ」
由美のことに話題が乗りそうになって、しめたものと思っていた詠子だったが、酔っ払っているにも関わらず、まだ冷静だった桃子に足元を掬われた。
「で、さあ。その吉川クンとは、何処までいってんの?」
「何処までって……」
図書館で一緒に課題をこなしたり、ランチを一緒にしたり、そういえばこの前は、ゼミの課題の一環として、双葉大学が提携している“紫洸院博物館”に、二人で足を運ぶこともあった。
「………」
自分でも知らず、その様子を嬉々として語っていたらしい。カルピス・ハイを傾ける桃子の表情が、“けっ、リア充め”とでも言いたげな、憮然としたものになっていた。
「ほとんど付き合ってるようなモンじゃんか。ちっ、やってらんねー」
「で、でも、告白したわけじゃないし、してもらってもないから……」
「告白、してもらいたいんだ」
「う」
図星、というものがあるとしたら、まさにそれを突かれた思いの詠子であった。吉川と過ごす時間が増えるに従って、もっと彼と違う形で、側にいられるようになったらいいのに、と、考える自分がいたことを、今更ながらに自覚させられたのである。
黙ってしまった詠子を前に、カルピス・ハイの入ったグラスを空にした桃子は、豪快な一息をついた。まるで何処かの“おっさん”である。
(おっさんいうな)
…はい、すみません。
桃子は、5本目になる今度はコーク・ハイを、空いたグラスに注ぎながら、視線を詠子に投げかけた。
「恋、どころじゃないわね」
「え」
「あんたもう、その吉川クンに“めろめろ”だわ」
「!」
詠子の頬が紅く染まった。彼女は、アルコールを口にしていないから、顔が赤くなった理由はただひとつしかない。
「はい、確定。そんだけ顔を真っ赤にされちゃ、言い逃れなんてできないわね」
「ふ、不覚……」
またしても詠子は、愛読している剣戟小説のとある台詞を、今度はモノローグではなく、実際に口にしてしまっていた。