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『詠子の恋』
【スポーツ 官能小説】

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『詠子の恋』-10


 野球のルールブックを一読したことで、詠子は、前の試合よりも、グラウンド内でのそれぞれの動きがわかるようになっていた。
(あそこが、吉川クンの場所なんだ)
 吉川がいるという“サード”の位置も把握したから、詠子の視線は、三塁を守っているその姿にのみ集中している。

 【櫻陽大】|000|   |   | |
 【双葉大】|000|   |   | |

 従って、緊迫した序盤の攻防を終えた両チームの、スコアボードには関心が寄っていなかった。
(今日はこの前よりも、随分と人が多いのね……)
 城央市営球場にやってきた、最初の印象である。前の試合は座る場所を別の意味で探せなかった詠子だが、不思議なもので、ある程度の観客で埋まっている方が、すんなりと近くの場所に腰を下ろすことが出来た。
 そうして、この試合に臨む吉川の姿を、ずっと追いかけてきたのであった。
『3番・レフト・みかど』
 4回表の櫻陽大学は、1番と2番があっさり凡退に倒れ、アナウンスの声を受けて、3番の御門一太郎が打席に入っていた。詠子は知らないが、御門一太郎は、この“隼リーグ”において一・二を争う巧打者であり、前年度の打率首位打者である。
(吉川クン、なんだか力が入ってる……)
 彼女の視線は、他の観客とは違い、吉川にのみ注がれていた。彼の構える姿に、なにか“力み”のようなものを感じた詠子は、直感的に悪い予感がして、胸がざわめいた。

 キィン!

「!」
 御門の放った、強烈な打球が吉川の方に飛ぶ。振り遅れてはいたのだろうが、しっかりとミートをしているあたり、さすがは御門といったところであろう。

 ガツッ!

「あっ!?」
 その強烈な打球が、吉川の顔面を直撃した。目にも留まらぬスピードで、真正面に飛んできた打球に対して、グラブをとっさに差し出そうとしたものの、それが間に合わず、ボールを額でまともに受けてしまったのだ。
 打球はその勢いを完全に失って、グラウンド内を転々としている。当然、御門は一塁ベースに到達しており、スコアボードの記録では“5E”、すなわち、三塁手のエラーとしてカウントされていた。
「吉川クン!!」
 顔を押さえて、グラウンドにうずくまったままの吉川。審判やチームメイトが駆け寄る中、思わず詠子は、その名を呼んで立ち上がっていた。

 ざわ…

 と、周囲のざわめきと視線が、吉川に集中している。いくら軟式球とはいえ、あそこまでまともに顔面に当てたのであれば、無事ではすまないかもしれない。
「「おおぉぉ〜」」
 しかし、そのざわめきはやがて、静かな歓声に変わった。額を押さえながらも吉川が立ち上がり、苦笑いを浮かべながらグラブを掲げていたからだ。大丈夫だということを、周りに伝えたかったのだろう。苦笑いだったのは、結果的にエラーになったことに対する、投手への申し訳なさがあったのかもしれない。
 自分の体よりも、それを心配するのが、吉川らしいといえる。
(大丈夫なの、吉川クン。本当に、大丈夫なの……?)
 だが、無事そうな吉川の様子を見てもなお、詠子は動悸が治まらない。彼の身に何かあったらと想像して、そんな恐ろしい事態を考えただけで、詠子はとても胸が苦しくなってしまう。

 キィン!

(あっ、ま、またっ!)
 続く4番打者・仲里の引っ張った打球が吉川に襲いかかる。詠子は、胸の苦しみが最高潮に達して、たまらず口元を押さえ込んだ。
「!」

 バシィッ!

「おおおっ!」
 三塁線を抜けようかという強烈な当たりは、しかし、身を呈して飛びついた吉川のグラブにノーバウンドで飛び込んだ。そのまま胸元から滑り込んでしまった吉川は、それでも、そのボールを決して離しはしなかった。
「アウト!!!」
 顔面強襲のエラーを帳消しにする、ファインプレーであった。もしも、この打球が抜けていれば、ファウルゾーンを転々とする長打となり、双葉大学は1点を取られていたかもしれない。

 ワアァァァァ……

 顔面に打球を受けてもなお、怯みを見せないそのプレーに、球場の観客たちが一斉に歓声と拍手を送り始めた。
(吉川クン……)
 いまだ口元を押さえて、動悸が治まらない様子の詠子は、呼吸をするのも苦しいほどに、胸元を真っ黒にしながらも、今度は安堵したような顔で照れ笑いを浮かべている吉川を凝視し続けていた。
 試合はそのまま進み、結局は双葉大学が3対0で櫻陽大学を下した。頭に打球を受けた吉川も、その影響はなかったようで、それからも何度か打球を処理することはあったが、動きに乱れは見えなかった。
(よかった……)
 試合が終わって、自分が応援している人のいるチームが勝ったことよりも、その人が無事だということに心底詠子は安堵する。
「………」
 吉川のことが、間違いなく好きになっている事実を、改めて強く認識する詠子であった。


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