霊妙-6
翌朝、目覚めてから思考が活動するまでしばらくの時間が必要だった。ログ調の天井を見上げて昨日からの慌ただしい出来事を思い返した。ところが夢現の感覚が抜けない。疲労感が体を被っている。記憶が断片的でそれぞれがひらひらと舞っていて捉えどころがない。
何かを調理する音がして空腹を刺激する匂いが流れてきた。
(ベーコンだ……)
むっくり起き上がった。
(千秋……)
毛布を捲ってみた。行為の激しさを物語る明らかな痕跡がそこここにあった。
(夢ではない……)
篠原は身支度を整えて部屋を出た。
「おはよう」
にこやかに食堂のドアを開けた彼の笑顔が消えた。
(だれ?……)
(千秋……)に似ている。が、昨日の娘ではない。
「おはようございます。よくお休みになれましたか?」
つぶらな瞳と爽やかな笑顔は『千秋』を彷彿とさせる。しかし、ちがう。どうなっているんだ?……
「昨日の娘は?」
「昨日って?」
「昨日いた娘だよ。君と同じくらいの齢の……」
娘はぽかんとした顔をみせた後に笑いを堪えて、
「夢をごらんになったのかしら。昨日は私しかいませんよ。ずっと一人ですもの。だからお客様は最少限。お話しませんでした?」
「だって……」
「どうかなさいました?」
「ああ……」
力が抜けていき、足元が不安定になって、手近な椅子に座り込んだ。
(夢……そんなはずはない。あんなに激しく千秋を抱いた。彼女と一つになって時空を遡ったのだ……)
娘の微笑みが注がれる。
「その夢の方、ひょっとしてお客様の初恋の人かしら」
娘は手際よくテーブルに朝食を並べていった。
「パンは手作り。ちょっと自慢です。お代わりはおっしゃってくださいね」
篠原は頷きながら、娘の顔から姿態をくまなく観察した。やはり違う。昨夜の娘は千秋そのものだった。だが、この娘も似ている。千秋の面影を追い求めるあまり自ら幻影を作り出してしまったのだろうか。……何が何だかわからなくなった。……
「君はーー」と、篠原は問いかけた。
「そんなに若いのに、いつからこのペンションを?」
「そう思われますよね」
彼の前にコーヒーを置くと、娘は外に視線を移した。
「以前は母と二人でやっていたんです。昨年母が亡くなって、どうしようか迷ったんですけど、出来る範囲でやってみようと……」
「そう……」
「でも、そろそろ閉めようかと思っているんです」
「やっぱり一人では大変?」
娘は答えず、両手を広げて言った。
「どうぞ、召し上がってください」
篠原はなぜか心に風が吹き抜ける感覚を覚えた。それは黒い風であった。運ばれて通り過ぎたのは遠い記憶の儚さであったような気がした。
食事が済み、後片付けが終わっても、篠原は長い時間食堂にいた。何かを考えようとすると頭の中に流れを感じて何も浮かばない。
(何が起こったのだろう……)
何度試みても思念は消えた。
「すみません。チェックアウトは十時です」
いつの間にか時間が経っていた。
「もう少し、いたいんだが……」
「お寛ぎいただいて嬉しいです。でも、掃除や仕込みがありますので」
「そう……残念だ……」
「すみません」
娘に見送られて歩き出した時、突然慌ただしい気持ちが胸に満ちてきた。
(もっと話すことがあるのではないか……)
振り向くとデッキに佇む娘が大きく手を振った。
「さようなら」
その言葉は逡巡する彼を追い立てるように白樺林に響いた。
「さようなら……」
目頭が熱くなって彼は背を向けた。
ふたたび振り返ったのは微かに娘の声が届いたからだった。
「さようなら……お父さん……」
聴こえた気がした。娘は左右に手を振り続けていた。
遠く木々の合間に駅舎が見えてきた。歩きながら、心のどこかに空白を感じていた。
昨日見た案内板を行き過ぎて、立ち止った。
(ない!)
名前がない。
『勿忘草』と、はっきり書かれてあったはずだ。真ん中あたりだ。近寄って見上げて地図の道を辿った。文字の片鱗すら見当たらない。
(そんなばかな……)
「すいません!」
走り抜けて行くバイクを大声で呼び止めた。地元の人とおぼしき老人だったが誰でもよかった。
篠原は駆け寄って案内板を指さしながら息を切って訊いた。
「ペンション、勿忘草っていうペンション、知ってますか?」
老人は度の強い眼鏡の奥できょろきょろ目を動かした。
「勿忘草?……ああ、火事で焼けたとこか……」
「火事……」
「ああ、火事。焼けてしまってもうないよ」
何を言っているのかと思いながら、
「勿忘草ですよ」
「うん。一年ぐらい前だ。大騒ぎだったな」
「今は、今もやってるでしょう?」
「更地だが、今は」
「だって……」と言いかけて篠原は口ごもった。
「そんとき、奥さんと娘が亡くなって、その後はよく分からないだが、そのままじゃないかな」
篠原は茫然としながら頭を下げた。
鳥肌が立って震えを感じた。ペンションの方向を見つめながら体が動かなかった。確かめようとは思わなかったが、駅へ向かうことも出来ず、戸惑うように立ちつくしていた。
抜けるような秋空だった。そよぐ風が高原の冷気を運んできた。
(了)