霊妙-2
篠原の宣言は早速日曜日に実践された。
「本気だったの?」
土曜日に帰宅して日帰りハイキングの雑誌を見せると雅子はおかしそうに笑いながら言った。
「本当さ。脱メタボだからな。雅子だって運動不足だろう。一緒に行こう」
「だって、急だもの。支度が…」
「歩くだけだよ。簡単でいいんだ。普段着で」
雅子は困った顔をみせてはいたが、二人で出掛けることなど久しくなかったのでまんざらでもなさそうだった。
その日は奥多摩の御岳周辺を巡って歩いた。より無理のないコースを選んだ。そして二人は病みつきになった。自然の中を歩く楽しさもさることながら、帰路に篠原が囁いたひと言が互いを燃え上がらせたのである。
「ホテルへ寄って行かないか?」
思いもかけない誘いに雅子は少女のような恥じらいを見せたものだ。若い頃、ときめきながら訪れた淫靡な空間。何をしても構わない二人きりの部屋。
雅子は頬を染めてこっくりと頷いた。心地よい疲労の後の交わりは激しさの中になぜか滔滔とした豊かさを感じた。
篠原がハイキングを思いついたのは突飛な発想ではない。それは雅子にもわかっていた。二人は学生時代にレクリエーション同好会に入っていたのだ。誰がきっかけを作ったのか忘れたが、雅子の短大と交流するようになり、二人は知り合ったのである。
初めから雅子に惹かれたわけではない。短大からはいつも十名前後の参加があって、篠原の大学と合わせると二十人ほどのグループになった。七割は女子、男にとっては恵まれた女の園であった。
彼は同じ学部の星野千秋に好意を寄せていた。線の細い内気な性格だった。その可憐な印象が彼には堪らなくいとしかった。
二人は顔を合わせるとよく話をした。同学年だったからいくつかの科目では並んで授業を受けたり、帰りが一緒の時は喫茶店に立ち寄ったりもした。篠原は、彼女も自分に好感を持ってくれていると信じていた。
合同のレクリエーションは略して合レクと呼ばれ、年に一、二度のつもりが毎月のように行われるようになった。たいていは短大からの誘いである。思うに、女子ばかりの環境なので男子を交えた集まりが新鮮だったのかもしれない。
回を重ねればそれぞれ親しくもなり、雅子とも話をするようになった。雅子は千秋とは対照的に、明るく積極的な娘だった。
「篠原さん、ご一緒しましょ」
誰はばかることなく肩を寄せてくる雅子を、千秋は離れたところから見ていた。彼はそんな時、必ず千秋に向って手を挙げて意識していることを伝えたものだった。
「篠原さん、星野さんとお付き合いしてるの?」
雅子が訊いたことがある。
「なんで?」
「だって、時々目を合わせているみたい」
「別に…同じ学部だし、よく知ってるから…」
「それだけ?」
「そうだよ。それだけ…」
照れ隠しもあってそう答えた。
(いつか千秋に想いを打ち明けよう……)
篠原は胸に秘めていた。
だがその密かな恋心は脆くも崩れてしまった。
「星野さんが、高野さんと…」
結ばれた……。
雅子からその話を聞いた時、たとえようのない衝撃を受けた。
「誰から、聞いたの?」
「星野さんからよ。彼女嬉しそうだった」
(先輩の高野と…いつから、そんな……)
千秋とは手も握ったことがない。儚い恋だった。
いつ癒えるかと思われた傷心を抱えていた時にそばに寄り添ってくれたのが雅子だった。やがて二人は結ばれた。
ふた昔も前の思い出である。いまさら熱い想いはない。ただ、ハイキングの楽しさは忘れていなかった。思いついたのはそれだけのことだった。
毎週出かけることはさすがに無理だったが、月に一、二度のペースで水いらずの時間を楽しんだ。時には天候が悪くて日延べすることもあったが、むしろ期待が膨らんで次の週まで暗黙の禁欲をするほどの愉しみとなっていった。
篠原よりも雅子が夢中になった。新しい旅行誌を買ってきては毎晩のように検討していた。
一年ほど経つと近郊の主だった所は行き尽くしてしまった。
「清里に行かない?」
雅子がいつも以上に目を輝かせて言ったのはその頃である。
「清里……行けないことはないけど、ちょっと日帰りじゃきついな」
「だから、一泊で」
「一泊?大丈夫か?子供」
「土日にかけてなら平気よ。高校生だもの」
息子たちは日曜も部活がある。
「食事は作っておくわ。いつまでも甘えちゃよくないわ」
行くことを前提にした言葉だった。
「清里って、前に行ったかな…」
「行ったわよ。忘れたの?がっかりだわ」
雅子のいたずらっぽく睨んだ目を見ているうちに少しずつ記憶が甦ってきた。
(合レクで行ったことがある……)
あの時、一泊したんだ。……そうだ、夜、雅子と外へ抜け出して初めてキスをした。がっかりだわと少し拗ねて言ったのはその思い出のことだった。
あの夜は雅子に縋るような気持ちだった。千秋が高野とデキテいると聞かされて暗澹たる想いだったのだ。
(あの夜だったか……)
雅子が優しく手を握ってくれて、涼風の白樺林の中で彼女を思い切り抱いたのだった。
(高野のどこがいいのだろう…)
雅子の髪の香りに酔いしれながら、なおも思い続けた記憶がある。
ペンションに泊まったのだ。何という名前か忘れてしまった。
考え込んだ篠原を見て、雅子は微笑んだ。
「思い出したみたいね」
「忘れてないよ。でも、あのペンション、何ていったっけ」
「勿忘草…」
「…そうだ、そう」
「忘れないでね」
洒落のつもりらしい。
記憶が目覚めてみると深い感慨が胸を熱く被ってきた。そこにいたのは鮮やかな千秋だった。
(まだ心の奥に彼女はいたんだ……)
「ね、あのペンションに泊まってみない?」
「まだあるかな」
「調べてみる」
雅子は浮き浮きして言った。