第6話-24
そう、念を押す。これで、彼女はよっぽどの理由がない限り逃げられないだろう。
『わかりました。おやすみなさい…。』
英里からそう返事が来たのを確認すると、彼も最後に、気をつけてな、とだけ返信して、携帯を置いた。
圭輔からのメールを見て、英里は動揺した。
メールという伝達手段があって、本当に良かったと思う。直接、もしくは電話で、この会話を交わしていたかと思うと、きっとこの心の動きは隠し通せなかった。
特に圭輔に対しては、自分の心を偽るのがとても下手になってしまうから。
(避けてる、のかな…)
そんなつもりは毛頭なかったのだが、結論を先延ばしにしたいと思っていたのは事実だった。
次に彼に会った時は、いろいろと向き合わなければならない事がある。
まだ、ようやく深夜の2時を過ぎた頃。始発が出る5時台まではまだまだある。それに、あまりに早朝に着きすぎるのも、彼やご近所に迷惑を掛けてしまうだろう。
あの夜、不意に彼の口から飛び出した結婚という単語については、まだ彼の真実の言葉なのかどうか、信憑性が薄い。自分からは触れない方がいい。
彼を避けているのではないという事をわかってもらえるには、どうすればいいだろうか。
気持ちを整理するため、彼女に与えられた猶予は、あと数時間だ。
翌朝、玄関の方から古ぼけたチャイムの音が鳴り響いた。
朝の7時過ぎ。ようやく彼女が来たのかと、圭輔は急いでドアを開けた。
「おはようございます…」
ふらふらと、今にも倒れそうな英里が、扉の外に立っていた。
圭輔の顔を見ると、英里は必死に目を開こうとするが、すぐにとろんと目蓋が落ちてくる。
彼女を招き入れ、ソファに座らせると、目を閉じたまま動かなくなってしまった。どうやら、眠ったようだ。
徹夜明けで起こすのも可哀想に思い、圭輔はそんな彼女を見て、とりあえず無事だった事に安堵したが、苦い顔で溜息を吐いた。
(これは教育的指導が必要、かもな…)
―――放課後の教室。
もうだいぶ日は傾いていて、窓辺から差し込む夕陽が部屋をオレンジ色に染める。影の黒と、夕焼けの橙のグラデーション。その中の、2つのシルエット。
気付くと、英里は真ん中の一番前の席に座っていた。周囲を見渡すが、他に生徒の姿はない。
英里が座る席の真正面…教卓の隣に置いたパイプ椅子に無言で腰掛けているのは、彼女のクラスの数学の授業を受け持っている、長谷川圭輔先生だった。
長い脚を組んで、何かの本に目を落している。表紙の装丁から、おそらく数学の授業の指導教本だろう。
ここで、一体自分は何をしているのだろう。状況が呑み込めず、英里は圭輔の方を見つめていると、その視線に気付いた彼が、本から目を離して、
「…水越さん、何をぼーっとしているんですか?」
咎めるような目で睥睨してくる。
「え…?」
「補習の課題が終わるまで帰れませんよ。一体何分掛かってるんですか」
溜息交じりに、そう口にした。
「す、すみません…」
慌てて英里は視線を外し、机の上に置いてある藁半紙を見る。A4サイズの用紙に、4題の問題があった。何故補習を受けさせられているのかはよくわからないが、とりあえずこれを解かなければ解放してもらえないらしい。
それにしても、あんなに機嫌悪そうに言わなくてもいいのに…、先程の教師の口調を若干苛立たしく感じながらも、早速取り掛かろうとペンケースからシャープペンシルを取り出す。
(あれ…?)
自分は、数学はどちらかと言えば得意教科のつもりだった。この問題も、三角関数の応用のようだが、ざっと見たところ難易度はそんなに高そうにない。なのに、解法が全く思い浮かばないのだ。
頭の中を整理して、じっくり考えてみようとするが、どうしてもわからない。基礎的な部分が突然すっぽり抜け落ちてしまったとしか思えない。
(何で…?どうしよう…)
今までに感じた事のない焦燥に、胸の鼓動が早くなる。ペンを握った手が、汗ばむ。
ちらりと、目線だけ上げて教師の方を盗み見るが、冷淡な横顔が映っただけだった。
再び手元の用紙に視線を戻すが、いくら渋い顔で問題と睨めっこを続けたところで、事態が好転するはずもなく。諦めて、ペンを机の上に置いた。
「先生…考えたんですけど、全然、わからなくて…」
自分の不甲斐無さが悔しくてたまらないが、英里は俯き加減に、口にした。
「…さっきも教えた部分ですよ?ちゃんと聞いてなかったんですか?」
静かだが、その声は微かに怒気を帯びていた。端整な顔立ちをしている分、睨まれた時のその迫力に、英里は小さく身を竦めた。
正面の教師の侮蔑の眼差しに耐えられず、視線を外すと、情けなさに涙が零れそうになった。
そんな彼女の様子に、教師は仰々しく溜息を吐くと、
「わからないなら、もうそのままで帰って構いません。…やる気がない生徒に、いくら教えても俺も時間の無駄だしな」
突き放すようなその言い方は、教師としての体面を取り繕おうともせず、もうそんな必要などないとでも言わんばかりに、ただ英里の事を見下していた。
立ち上がって、彼は教室から出て行き、その場には彼女一人が取り残された。日が落ちる直前で、電気も点けていない教室内を、暗闇が覆い始める。
英里は俯いたまま、膝の上に置いていた両手を、ぐっと強く握り締めた。
学力は、持って生まれた素質や才能とは違う。努力すればした分、応えてくれる。だからこそ、何もない自分でも、唯一伸ばせた部分。だが、それすらも、認めてもらえない。
手の甲に一粒、ぽたりと雫が滴る。たった一滴でも許してしまうと、我慢していた涙が止め処もなく零れ落ちた。
(どうして、私ってこうなんだろう…)
つい今し方、あの教師にも自分自身を全否定されたような気がした。
何も出来ない。何の期待にも応えられない。誰からも、必要とされない…。