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夕焼けの窓辺
【その他 官能小説】

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第6話-25

―――体が鉛のように、重い。
必死に動き出そうとするが、下から見えない無数の手に全身を絡め取られているかのように、そのまま奈落の底へと引きずり込まれそうになる。悪夢から、逃れられない。
助けて…、大声でそう叫ぼうとした瞬間、誰かの手が英里の手首を掴んだ。
「っ!」
強い力に引き上げられたと思ったと同時に、ばちっと、英里は瞳を大きく見開くと、ぼやけた天井が視界に入った。
(ここは…)
違う場所だ。夢だと気付き、英里はほっと息を吐いた。寝汗が吹き出て、額に前髪が張り付いている。同じく、汗で濡れた体と、夏特有の高い湿度が不快だった。
そんな英里の疲弊しきった様子を、圭輔は隣に座って、心配そうに見つめていた。
「英里、うなされてたみたいだけど、大丈夫か…?」
横になったまま少し首を傾けて、圭輔の顔を見ると、先程の彼の冷然とした態度が思い出されて、じわりと熱い涙が込み上げてきた。
「…ちょっ、どうしたんだよ!?」
まさか自分自身が彼女の夢の登場人物だとは思いも寄らない彼は、突然の涙に戸惑った。
「いえ、何でもないんです。夢を…見ただけで」
「そっか…」
圭輔は、淡く微笑んだ。彼女を問い詰めるつもりだったが、こんな傷悴しきった姿を見せられては、強く言い出せるはずもない。
英里はゆっくりと起き上がると、手探りで眼鏡を見つけ出した。いつ外したのかわからないが、机の上に置かれていた。壁時計を見ると、既に正午に近かった。眠気を堪えて、何とかここまで辿り着いたまでは記憶にあるのだが、あれから5時間近く熟睡していたらしい。質の良い眠りが取れなかったのか、気分がすっきりせず、目の奥がズキズキと痛んだ。
「あの、この前から迷惑ばかり掛けてしまってごめんなさい」
「いいよ、だから俺に気兼ねなんてしなくていいって…」
彼がそう言った後、何となく気まずい沈黙が訪れた。
「…とりあえず、飯でも食う?腹減ってるだろ」
英里の返事を待たずに、圭輔は立ち上がる。話は、それからだ。


「…で、昨日の話の続きだけど」
簡単な食事を終えた後、圭輔は英里の顔を真正面から見つめた。
「俺の事避けてない?」
「…どうしてですか?」
いざ、ここに来て、こうやって彼と向き合っていると、深夜いろいろと考えていた事が全て吹っ飛んでしまった。とりあえず、相手の出方を窺おうと、英里は逆に質問を返す。
辛うじて笑みを作って見せたが、それでごまかされるような彼ではない。
「合鍵、渡したよな?」
「預かりましたけど…」
「何で、うちに来ないんだよ」
「……だって、一昨日は友達のうちに泊まりに行きましたし、昨日は漫画喫茶に…」
「わざわざ深夜に行かなくてもいいだろ」
「そうですけど…」
会話が平行線を辿っている。圭輔は押し黙ってしまった英里を見つめていると、
「じゃあ、どうして圭輔さんは合鍵なんて私にくれたんですか?」
英里は、おずおずと、ずっと気になっていた疑問を切り出した。彼の気持ちを、はっきりと聞かせてくれなければ、これからもずっとただのお守り代わりのままにしてしまいそうだ。
「いつでもうちに来られるようにだよ。前も言っただろ、英里と一緒にいたいって…」
その言葉に、何の迷いも、躊躇いもなかった。当然のように、圭輔はさらっとそう口にした。
真顔で言う彼に、英里は顔が火照りだし、胸の奥がざわめく。
以前は冗談めいて言われたが、今はどうなのだろう。本当に言葉通りの意味なのだろうか。それとも、ただ大袈裟に言っているだけなのか。
自分だって前に言ったはずだ。そんなの無理に決まっている、と。
一緒にいたいという、その言葉の奥にもっと深い意味が隠されているのならば、何故か今はそれに気付きたくなかった。
そんな事を考えていると、気付けば英里は彼の言葉と全く逆の事を口にしていた。
「……あの、お世話になるのは今回だけ、なんですよね…?ずっとじゃないですよね…?」
そう言いながら、ずきんと、胸が鈍く痛んだ。
もし、彼が真摯な思いをぶつけてきているのだとしたら、それを曖昧な返事で終わらせようとしている、自分は最低だ。
微笑もうと思っているのに、顔の筋肉が強張って、上手くいかなかった。
…彼の好意を踏み躙っておいて、無神経に笑えるはずがない。
英里のその言葉を聞いて、圭輔は、自分と彼女の決定的な心の乖離を感じたような気がした。無理矢理取り繕おうとしているぎこちない挙措が、痛々しい。
“英里は、俺とずっと一緒にいたくないのか…?”
思わず飛び出しかけた未練がましい言葉を、圭輔は口を噤んで耐えた。
正面に座る、英里の困惑した表情を見つめると、彼の胸は重くなる。
そんな事を言ったところでどうなるだろう。内気な彼女をますます困らせるだけになるのは目に見えている。
彼女には、何もかもが初めての事なのだから、彼女のペースに合わせると決めた。まだ、これ以上の関係を求めるのは、時期尚早なのかもしれない。
いつも空回りだ。本当の彼女の心に触れられない。
英里の胸の裡には、どんな感情が詰まっているのだろう。
彼女の全てを晒して欲しい。それが限りのない深淵だとしても、きっと受け止めてみせるのに。
「…両親って、いつ帰ってくんの?」
「え?」
英里は、俯いていた顔を上げると、ほんの一瞬だけ彼の瞳が切なげに揺らいだ気がして、きゅっと胸の奥が締め付けられるような息苦しさを感じた。
「…たぶん、来週末くらいに」
少し思い出すようなふりをして、そう言った。嘘に嘘を塗り重ねていく。
「その間だけでも、うちに居てくれると俺が安心だなって…」
自分の言葉に、身を切られるような思いだった。
これは本心ではない。
だが、自分自身よりも、彼女の意思を尊重したい。
…いや、これも本音と違う建前。自分が、これ以上彼女に拒まれるのを恐れているだけだ。


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