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濃霧の向こう側に手を伸ばして
【大人 恋愛小説】

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-1

 翌朝、いつもより一時間長く寝ていた俺が目を覚ますと、キリは既に起きて台所に立っていた。
「おはよ」
 キリの背中に声を掛けると「おはよ」と返ってくる。笛吹きケトルの喧しい音が、寝起きの耳を直撃する。
「それ、鳴る前に火から下ろせ。うるさいから」
 話を聞いているのかどうなのか、軽々しく「はーい」と子供のように返事をし、二つ並んだマグカップにお湯を注いでいる。俺は布団をぱたんと三つ折りに畳んで、押し入れの前に置いた。暫くは押し入れにしまう必要を感じないからだ。どうせ暫くは、ベッドでは眠れないのだから。トイレにたって戻ってくると、朝食が出来上がっていた。
 ジャムが塗られたパンが皿に乗っている。隣にはマーガリンのパン。これで三日目になる。
「いただきまーす」
 またもやキリの発声で食事が開始された。別段文句を言うでもなく、俺は食事を始める。外から車が発進するエンジン音が聞こえてくる。
「そういえば、武人は車の運転ってしないの?」
「免許はあるし、レンタカーは時々乗ってるけど。車って維持費掛かるしな。原付があれば十分。一人だし」
 そう言うとキリは「彼女ができたら不便じゃないの?」と問う。
「車がない人はいやだ、なんていう女、こっちから願い下げだよ」
 ごちそうさま、そう言って食器をひとまとめにしてシンクに置いた。洗い物はキリがやってくれるらしい。俺はそれから顔を洗い歯を磨く。ちょうど朝食を食べ終えたキリが、シンクに食器を置くために、俺が少し場所をずれた。
 とても日常らしい日常を、この見ず知らずの女と過ごしている。まるで作り物のような気がするのだけれど、繰り広げられている事は確実に日常生活な訳で、おかしな気分になる。
 キリは洗った食器を必ず元の位置に戻しておく。俺は洗ったら洗ったままかごに入れて乾かしておいて、そこからまた食器を使うという事を繰り返していたが、洗った食器がきちんと棚に入っていると、とても清潔な気がして嬉しい。洗濯物も、きちんと畳んで置いておいてくれる。一人でいる頃よりも、より「素敵な日常生活」なのかもしれない。そう思うと、キリがいる生活も、悪い物ではないような気がしてくる。
 しかし問題なのは、彼女は「誰でもない」という事。知らない人間だと言う事。知っているのは桐子という名前と、精神的に病んでいるらしいと言う事、異常な寂しがりだという事、それぐらいだ。俺がいくらキリに愛着がわいたとしても、彼女は誰なのかさっぱり分からないのだ。
「じゃぁ、行ってきますんで」
 俺が鞄を持って玄関に向かうと、昨日までのようにまた走り寄ってくるのではないかと危惧したが、彼女はベッドに寝そべったまま、テレビを見ていた。聞こえてくるのは、星座占いだった。
「いってらっしゃい」
 何気ないその一言が、昨日までと違う。どこが違うのか分からない。犬コロのようについて来ない事が違うだけか、と思い直し鍵を手に取ろうと靴箱に目をやる。
 と、そこにあるはずの鍵がない。昨日確かにここに置いたはず。これまで一度も、ポケットに入れっぱなしだとか、原付にさしっぱなしとか、そういう経験はない。それでもここにないという事は、ポケットか。上着のポケットに手を突っ込んでみるが、手袋以外の感触はない。玄関を出て、原付の鍵穴を見てみるが、何もささっていない。そもそも原付に付けっぱなしになっていたら、一緒に付いている家の鍵が使えなかったはずだ。また玄関を入り、部屋に置いてある昨日履いていたデニムを広げて




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