雪ノ章-1
一、
しんしんと音も無く雪が降り積もる、厳冬のある日。
年の頃は恐らく、十五、六歳程の少女が、一糸纏わぬ姿で畳の上に横たわっている。
幼い筈の少女が、この空間においては不思議と、年相応でない成熟した女性の色香を漂わせていた。
畳に無造作に流された日本人形のように艶やかな長い黒髪。白くて華奢な肢体。
軽く伏せられた瞼からは瞳の色は窺えない。
それを精悍な顔つきでじっと睨みすえた一人の壮年の男。
黙々と、手と目だけを一心に動かし続けている。
彼は、実の娘である少女の絵を描いているのだ。
彼の名は、篝 晏爾(かがりあんじ)。新進気鋭の画家である。
彼が主に描くのは風景画、特に雪原。真っ白な白銀の世界。
不思議なことに、彼の絵はそこに白一色でなく、様々な色を見出させる。
独特な雰囲気を持った画風が支持され、一躍この世界で名を馳せた。
後に、この絵は彼にとって最初で最後の人物画となるのだった…。
「蘇芳さん、お汁粉を作ってみたんですけれど、宜しければどうですか?」
背後から、少し遠慮がちな女性の声が彼の耳に入る。
その時、彼は庭の風景を描写していた。この家には、立派な日本庭園がある。
広いが質素な造りの家屋には、不釣合いなほどの瀟洒な庭だ。
家主の庭へのこだわりが方々に感じられる。
今日は、今年初めての雪が降った。
雪化粧が施された庭は美しく、冬枯れの景色にもなお趣を感じさせた。
そんな風景を目の当たりにして、彼は筆を執らずにいられなかったのである。
縁に腰掛けていた青年は手を止めて、女性の方を徐に振り向いた。
「有難う御座います、お嬢さん。一緒に頂きましょう」
人の良さそうな温かい微笑を彼女に向けながら、彼はそう答えた。
「はい、ではお茶でも淹れてきますね」
彼の返答に、その女性は顔を綻ばせて、再び台所へと消えていった。
「ふぅ…」
彼女の後姿を見送った後、彼は息を吐いて、軽く伸びをする。
その青年の名は、一色 蘇芳。画家を目指して、日々精進に励んでいた。
―――過去形なのは、彼はもう画家を志してはいないからだ。
今から数年前、蘇芳は、今は亡き篝 晏爾という画家に弟子入りしていた。
いや、正式に弟子入りを認めてもらっていたわけではないが、唯一絵を描く過程を観察することを許されていたので、弟子同然だったというべきか。
二人の出会いは、当時彼が通っていた美大で開かれた講演会の講師として、晏爾が招かれたのが切っ掛けだった。
画風だけでなく、講壇で語る彼自身の闊達さに、蘇芳はすっかり感銘を受けた。最初は素気無く追い返されながらも、その熱意に絆されたのか、足繁く通ううちに、いつの間にか晏爾の内弟子となっていた。
しかし、絵を描けば描くほど才能の限界…自分には絵だけで生きていける腕はないという事実を突き付けられることになる。
晏爾も口にはしなかったが、それを見抜いていたが故、正式な弟子入りを許してはくれなかったのかもしれない。
だが、一度抱いた情熱はなかなか簡単には捨てきれず、今はただ、先程のように手慰みに絵を描いている程度だ。かといって、それではただの趣味の域であり、生活の足しには全くならない。
蘇芳も今年でもう二十七歳。そろそろ身の振り方を真剣に決めなければならない年齢である。
そんな彼が、何故未だにこの家に留まり続けているのか。
それは、晏爾が今際の際に残した一通の遺書。
自分の全財産の半分を譲る代わりに、良い人が現れるまで娘を見守ってやって欲しいといった内容のものだった。
その話を弁護士から聞かされた瞬間、自分に全幅の信頼を寄せてくれていた晏爾に対して、一層哀惜の念がこみ上げたが、同時に自分には荷が重いような気もした。
彼の全財産の半分といえば、相当な額になる。
赤の他人の自分が、そんなにも多額の遺産を受け取る資格があるのか。
そして、それに見合うほどの役目がきちんと果たせるのか。
心に幾つかの迷いを抱きつつも、故人の遺志を無下にするわけにもいかず、当の娘からもそうして欲しいと懇願されたので、ここに居続けている。
青年が当時二十五歳の時のことだった。