雪下めぐみ-1
数日後、ここは雪下めぐみの控え室。ドアがバタンと閉じる音がした。
「あら……ドアが今開いて閉まったような感じですけれど、誰か部屋を間違えたのでしょうかね」
メイクの女性がそう言って雪下めぐみの方を振り返ったとき、彼女の姿は見えなかった。
「えっ、めぐみさん、どこへ行ったんですの?たった今ここにいたのに」
その慌てふためく様子を雪下めぐみは見ていた。
「なに言ってるんですか? メイクさん。わたしはここに座っているじゃないですか」
だが、目の前にいながらメイクの女性は雪下めぐみが消えていると騒いでいる。めぐみの姿が見えないばかりか声も聞こえないらしい。
そのうちメイクさんの声が聞こえなくなった。口をぱくぱくしているメイクさんの姿だけが見える。
そして自分を囲む大きなシャボン玉のようなものが現れた。半径5mくらいの透明な球だ。表面の膜には虹色の光が映っている。
不思議なことに控え室の天井を突き抜けるくらい大きい球なのに、天井はさらにその上に見えている。
そして今度は球自体が乳白色の色になって、外の様子が見えなくなった。
雪下めぐみは白い球面の壁に囲まれた密室に閉じ込められたのだ。
「こんにちは。雪下めぐみさん」
可愛い声がしたので振り返ると、一人の少年が立っていた。10才くらいの顔の綺麗な少年だ。声も顔も女の子のように可愛い。だが少年だった。
その子は妙な服装をしていた。ピーター・パンの学芸会に出演したような緑色の三角帽に上着、黄緑色のタイツに先が反り返った尖った靴、つまり妖精っぽい格好をしていたのだ。
もっとすごいのはその子も大きなシャボン玉の中に入っていた。表面が虹色に輝く、あのシャボン玉である。
「君は誰?何かの番組の出演者かな?」
少年は首を振った。
「僕は妖精トム・ソーヤだよ」
「えっ、トム・ソーヤってあのトム・ソーヤ?」
「えっ、あのトム・ソーヤって、どのトム・ソーヤ?」
「ほら、アメリカの作家マーク・トゥエンが書いた小説の主人公よ。でも、トム・ソーヤは普通の人間の子供よ。妖精のはずがないわ」
「だって、僕のママが言ったよ。トム・ソーヤは空を飛んで海賊と戦う妖精だって。
だから僕にその名前をつけてくれたんだもの」
「海賊フックと戦ったり、空を飛んだりしたのはピーター・パンよ。悪いんだけれど、あなたのお母さんは勘違いしてるわ」
そう言って雪下めぐみは口に手を持っていった。それを見てトムは怒った。
「笑ったな。今笑ったな。ママのことを馬鹿にしたな」
「ちょ……ちょっと待って。ご……ごめんなさい。馬鹿にしたんじゃないわ。トム・ソーヤの方が可愛い名前だなって……きっとお母さんも、そう思ってつけたんだと思うわ」
「本当? 本当に馬鹿にしていない?」
「してないよ。でも、あなたが妖精なら、お母さんも妖精なの?」
「違うよ。ママは……芸能人だけれど、人間だよ。名前はいえないけれど。これは誰にも言わないでね」
「あなたの周りのシャボン玉みたいなのはなに? それと……この白い丸い部屋は何?」
「これは夢の中。シャボン玉みたいのも白い部屋も妖精球だよ」
「夢の中って……私夢を見てるの? ずいぶんはっきりした夢ね。確か私テレビ局の控え室にいたはずだけれど」
「きっとそこで急に眠ったと思うよ。ここは夢の世界だから」
すると妖精トムの周りの妖精球が消えて、なにかとても良い匂いがして来た。
「これ……良い匂いね。なんだかぼんやりして楽しくなって来た。そうかやっぱり夢なんだね、これは。忙しくて3時間位しか寝ていないから、眠っちゃったんだね、きっと」
「うん、そうだと思うよ。えーと……雪下めぐみさん、僕お姉さんのファンだよ。ぎゅーって抱きしめてほしいな」
この妙な匂いのせいなのか、雪下めぐみはとても開放的になっていた。歯医者で嗅いだ笑気ガスのような感じプラスなにか官能的な効果があるようだ。
雪下めぐみは目の前の年下の美少年が胸がきゅんとなるほど可愛く思えて、抱きしめた。
抱きしめるとどきどきして興奮してきて、思わずトムの唇にキスした。