第5話-15
―――英里は目を瞑っただけで、当然眠ってはいなかった。
圭輔の体が心配で、あまり興奮させてはいけないと思い、ああいう態度を取った。
眠っている彼の体を抱き締めていると、安らぎが彼女を包む。
これが、母性というものなのだろうか。
彼女という立場よりも、身内の、母のような…自分は彼よりも年下だから言うなれば妹のような、そんな位置の方が良い関係を築けていけるような気さえしていた。
今はもう12時過ぎ。
やはり疲労が蓄積していたせいか、あれから1時間程経った今、圭輔は再びすうすうと規則正しい寝息を立てている。一度は騙されたが、これは寝たふりとは思えない。
圭輔が目覚める前に、始発電車で帰ろう…そう決めると、英里もゆっくりと目蓋を閉じた。
朝の5時頃、圭輔は目を覚ました。
久々に深く眠ったお陰で、今日はとても体調が良いみたいだ。
英里は、まだ彼の隣で気持ち良さそうに眠っている。
肩の上に頭を乗せて眠っている彼女を起こさないよう、慎重に抱え上げて、とりあえずソファの上に寝かせる。
圭輔はその安らかな寝顔をしばしの間見つめていた。
彼女は昨夜、別れた方がいいかもしれないと口にしていた。
自分が精神的に未熟なせいで、そこまで彼女を追い詰めてしまった。
「英里、ごめんな…」
軽く目蓋に口付けた後、彼女が目覚めたら言おうと思っている台詞を、圭輔は口にした。
カーテンの隙間から陽の光が差し込んで、英里の顔を照らす。
その光の眩さに耐え切れず、ゆっくりと目蓋を開いた。
自分の部屋ではない…だが、愛着のあるこの場所。
確か、昨夜はソファの背に凭れていたはずだが、いつの間にか上に寝かされていて、タオルケットまで掛けられている。
「…圭輔さん…?」
眼鏡がなくて視界がはっきりしない。
手探りで机の上にあるのを見つけ、眼鏡を掛けてから辺りをきょろきょろと見回すが、それでも彼の姿は見当たらない。
「ん?」
すると、台所の方から、圭輔が顔を覗かせる。
「…もう大丈夫なんですか?私、すっかり寝ちゃって…」
「うん、平気…ってか俺別に何も…」
「何言ってるんですか、あんなにふらふらしてたのに!」
口調はきついが、心配そうな顔で、英里は圭輔を見つめた。
「もう大丈夫だって」
「…本当に?」
「本当。それに、今日は土曜だから仕事もほどほどにする」
苦笑を浮かべながら、圭輔は英里の顔を見つめ返す。
とりあえず圭輔は元気なようで、英里はほっと胸を撫で下ろす。
だが、ふと自分達の状況について思い出した。
この前、壮絶な喧嘩別れをしていて、まだ謝罪もしていない…。
始発に乗って、静かにここを後にしようと思っていたのに、もう今や7時だ。
その上、彼よりも遅く目覚めてしまうなんて、格好悪すぎる。思わず、英里は頭を抱えた。
「ちゃ、ちゃんと休んでるならいいんです。…じゃあ、私帰ります」
英里は立ち上がってそそくさと出て行こうとすると、圭輔に腕を掴まれて、突然背後から抱き寄せられる。
「あの…、は、離して…」
英里は圭輔の腕を外そうとするが、きつく抱きしめられていて逃げ出せそうにない。
同じように強く抱き締められた昨夜の事を思い出すと、俄かに顔が熱くなる。
「…。」
圭輔は何も言わない。が、腕を緩める気配も全くない。
今、有耶無耶の状態で彼女を帰してはならないと、必死に言葉を探していた。
英里も、彼と同じく言葉を探すが、何も良い言葉が思い浮かばない。
結果、2人はしばし無言の時を共有しあう。
ようやく、英里があの事について切り出した。彼の方を振り向き、
「私の事…怒ってないんですか?」
「…怒ってない。俺に英里を怒る資格なんてないだろ」
「え…?」
「英里に酷い事言った。俺の嫌な部分もたくさん見せたし…ごめん」
淋しげに、目元に翳りを見せる圭輔の憔悴しきった表情を見ると、英里の胸がずきんと鈍く痛む。
彼のこんな顔、見たくはない…。
「…いいです、だってきっかけは私なんですから」
「英里は悪くない、俺が…」
つまらないやきもちを妬いたせいで、英里を傷付けてしまったから。
「いいえ、私が…」
勘違いさせるような行動を取ってしまったから。
喧嘩だけでなく、謝る時もどちらも譲らない。このままでは堂々巡りだ。
何度も何度も同じ台詞を言い合った後、同じタイミングで呼吸を置いた瞬間、思わず顔を見合わせて軽く吹き出す。
「…もう、いいか」
「そうですね」
お互い、優しく微笑み合う。
「今日さ、これから何か予定ある?」
「いえ、別に何も…」
「あのさ、じゃあ…もう少し側に居て欲しい。英里と一緒にいたいんだ」
その瞬間、また圭輔の腕に強く抱きしめられて、彼の表情は窺えなかったが、声音から察するにどうやら少し照れているようだ。
(何か、可愛い…)
彼の温もりと同時に、胸の奥がきゅんと締め付けられるような甘酸っぱい感覚が英里の全身を走る。
「…そんなに居て欲しいんなら、居てあげます」
彼女も照れ隠しに、わざと皮肉めいて返事をすると、上から圭輔の苦笑しながらも、ありがとうという声が聞こえた。
「けど、私がいると仕事の邪魔に、なりませんか…?」
不意に、英里は不安げな瞳を向ける。
圭輔は昨夜の彼女の独り言を思い出していた。
「…なるわけないだろ」
「でも…」
「ならないよ…」
まだ食い下がる英里の頬に、圭輔はそっと手を添える。
「あんまり、気にしないでいい。会いたい時に会いたいって気兼ねなく言ってくれたら、その方が俺は嬉しいから」
そう言ったところで、英里が遠慮するのはわかっている。
聞き分けの良い彼女に甘えていた、自分がもっと彼女を気に掛けてやるべきだったのだ。
「もっと、ずっと傍に…一緒にいてもらいたい…」
「はい…」
英里は照れ隠しで、俯きながら控えめに返事をする。