17-3
ふと目をやった窓から見える街頭の光に、何かが反射し、落下しているのが見えた。
「雪だ」
皆一斉に窓に目をやり「ほんとだー」とぼんやり見つめた。
「積もるかなぁ」
矢部君の問いに智樹が「この辺じゃ積もんないだろうな」と穏やかな笑顔で返す。二人の間に交わされる会話は、恋人同士だった頃と同じなのに、俺はそこに割って入れない。きっと俺を跳ね返す「何か」がそこにあるんだろうと思う。もしくは俺が、大人になったのか。
俺は曽根ちゃんに「泊まってく?」と訊くと、曽根ちゃんは無言で頷いた。
この日は智樹をいじり倒した。俺はフランスにいて知らなかったのだが、智樹にストーカーじみた行為をしてセックスまでしていた女が、矢部君の親友である拓美ちゃんの背中を刺すという事件が起きていたらしい。三年前の事だ。拓美ちゃんには悪いが、このイケメン大男の醜態を見る事ができた矢部君が羨ましい。
曽根ちゃんは話の度にケタケタ笑っている。温度は低いけれど、確実に楽しく笑っている。十分だ、それで十分だ。親友を出汁に使って彼女の笑顔を見る。俺らしい野蛮な手だ。
「そろそろお暇しますかね」
俺が立ち上がると曽根ちゃんも立ち上がった。一瞬ふらっとした彼女の腕をつかむ。
「もしかして酔った?」
「酔ってないし」
その赤い頬は、会話の最中から赤いままで、酔っているのだなと判断する。でも会話はできているし、歩く事もできるらしい。
矢部君と曽根ちゃんが先に玄関先へ出た。
「じゃあまた、飯でも誘ってよ」
智樹に言うと、「おう」と頷く。
「塁、曽根さんの事、手放すなよ」
それまでへらへら笑っていた目とは打って変わって、真剣な目つきになり、少し驚く。
「言われなくてもな。放さねぇよ」
そう言って手を振り、久野家を後にした。
白い雪がはらはらと舞い降りていたけれど、傘をさすほどではなく、雪の中、手を繋いで歩く。白い吐息の中をキラリと光る雪が通り抜けて行く。
「いいなー、あの二人」
足元を見つめながら曽根ちゃんが口を開く。
「どこが?」
「何か、愛が形になってるって感じがして。羨ましい」
曽根ちゃんらしからぬ発言に驚きつつも、俺は一つ深呼吸をして切り出した。
「曽根ちゃんはさ、結婚とか子供とか、そういう女の幸せ、みたいなのって考えたりするの?」
俺の方に鋭い視線を向けた曽根ちゃんは「私だって女なんだから」と分かりにくい返事をする。俺は「そっか」と言い、暫く口を噤んだ。
曽根ちゃんは足元に向けていた顔を天に向け、白い雪を見ながら歩いてある。足元が少し覚束ないので、少しだけ蛇行する。
俺はあの場で思考から退けた「愛」について考えた。智樹と矢部君は三年の月日を経て結婚に至った。俺達は付き合い始めてまだ三ヶ月だ。そんなに短期間で「恋」が「愛」に変わるなんて事があるんだろうか。あるとしたら、相当大きな転機があった場合だろう。例えば、相手が死に掛けた時、とか。失いかけた時、とか。
「なあ曽根ちゃん」
彼女はおぼろげな視線をこちらへ向けた。いつもより幾分虚ろ気味だ。俺は続ける。
「俺は恋が愛に変わる瞬間て、何と無く分かった。相手を一生失いたくないって、誰かに誓える時だと思うんだ」
曽根ちゃんは少し顔を強張らせて無言で頷く。次の言葉を待っているように見えた。考えた挙句、思いの丈を吐き出した。
「曽根ちゃんが目を覚ました日、俺はもうこんな思いをしたく無いと思った。こうなる前に、俺が側にいて、曽根ちゃんを守りたいと思った」
思い切り目を背けた曽根ちゃんに、ハッキリした声で「恋が愛に変わった」と叫ぶ。
歩みを止めた曽根ちゃんに、小さな雪の粒が吸い付き、消えて行く。髪についた雪が、街灯を反射してキラキラと瞬いている。曽根ちゃんは、俺の目を見て「そんで?」といつもの平坦な声で促す。
「側にいて欲しい。俺の手の届く範囲にいて欲しい。もしこれから曽根ちゃんの恋が、愛に変わった時には、俺と同棲してくれ」
暫く虚ろな目を向けられたが俺は目を離さなかった。彼女の目は、虚ろなモノから笑みへと変わり、「塁も言う時は言うんだね」と軽く笑っている。俺は恥ずかしくて、首から上が空高く飛んで行きそうだったから、曽根ちゃんがそんなに重く捉えてくれなくて、逆に助かった。
「塁の言いたい事は分かった。取り敢えず寒いから、早いとこ塁の家まで帰ろ」
そう言った彼女は、珍しく自分から俺の手を握った。俺は雪をも溶かしてしまいそうなぐらい、身体中から熱い湯気が出ていたように思う。彼女の冷え切った手は、俺のポケットで暖めた。