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「これ、ありがとう」
ダウンをハンガーに掛けながらそう言う彼女はやはり顔を伏せたままで、目を合わせようとしない。俺はとりあえずラグに座って彼女の言葉を待つ事にした。
彼女はやかんで湯を沸かし、大きさがちぐはぐなマグカップに紅茶を入れてくれた。大きい方を俺に、小さい方は曽根ちゃんに。
「どうしても会いたいって言われて。でも部屋には入れたくなかったから玄関の外に出て。そしたらあんな感じになって」
淡々と起きた事を順番に話す彼女の目には何も映っていなかった。まるで異空間を見つめているようで、俺は口を挟むタイミングを計れなかった。
「放っておけなかったんだ。寒いし、寂しいって言うし」
「寂しい?」
その言葉に何か引っかかる物があり、俺はやっと口を開く事が出来た。
「寂しいって何? 寂しいからって俺の彼女を抱きしめるって、そりゃちょっとおかしいよなぁ」
俺は首を捻る。大きく息を吸った曽根ちゃんが握りこぶしを作るのが視界に入った。
「そうじゃないんだ、ただの寂しさじゃないんだよ」
逆に富樫をかばうような言い方をする曽根ちゃんに驚き、「え?」と訊き返してしまった。
「普通の人には想像つかないんだよ。富樫、親がいないんだ」
急速に目の前が狭くなって行く気がして、俺は一度目を強く瞑り、首を振った。再度目を開いた時には、何も映らない彼女の瞳が、こちらを向いていた。俺は、頭に浮かんだ言葉をパラパラと蒔いた。
「曽根ちゃんのお母さんに、知らない子が、さみしいよぉって抱きついてたら、曽根ちゃん、どう思う?」
「嫌だ」
「そう言う事だ」
俺は大きなマグカップを手に持ち、紅茶を一口飲んだ。少し砂糖を入れたいと思ったが、我慢した。そのままマグカップを手にして、手の平を暖めた。それから隣に座っている曽根ちゃんの両手を持った。思った通り、手の平全体が氷のように冷たくなっていた。俺の手の平で挟み込み、何とか暖める。彼女の体温と俺の体温が均一化されるまで、俺はずっとそうしているつもりだった。
「あの男が孤児だろうがなんだろうが、今のところ俺は、曽根ちゃんをあいつに渡してやるつもりはないんだ。曽根ちゃんも、あいつのところに行くつもりがないんだったら、もう会うのやめなよ。あいつの事が気になるなら、俺の事なんて置いて行きなよ。欲張ると、いい事ないよ」
挟んでいた手がだいぶ暖まったから、俺はそっと手を離す。
すっと伸びて来た、離したはずの彼女の手は、俺の二の腕を掴んで、俺は彼女に引き寄せられる。彼女は俺の耳元で、もうすぐにでも泣いてしまいそうなか細い声で、呻くように言う。
「塁の事が好きなの。だから置いて行かない」
俺のどこに魅力があるのか分からないが、とにもかくにも彼女は俺の事が好きらしいという事が再確認できた。俺は彼女を抱く腕の力を強めるが、そこから先、何をしたらいいのか分からない。背中に置いた手の平で、ゆっくりと、彼女の背中を撫でる。と、ビクンと跳ねるように動いたと同時に「いっ!」と声が上がった。
「どうした?」
曽根ちゃんは跳ねるように俺から身体を離し、項垂れたまま指をこねくり回している。突如、くるりと俺に背中を向けた。何が行われるのか俺にはさっぱり分からず、身構える事もできないまま彼女の背中に視線をやっていると突然、着ていたTシャツをまくり上げ、彼女の白い背中が露わになった。
白いのはブラジャーと元の肌だけで、そこにはコブシ大の赤黒い痣がいくつも出来ている。
「曽根ちゃん......」
俺は大筋で理解した。テレビでしか見た事がなかったけれど、これがDVという物なのかと理解した。曽根ちゃんは、富樫に、暴力と懐柔で縛り付けられている。富樫は曽根ちゃんを、暴力と懐柔で縛り付けている。
Tシャツを元に戻した曽根ちゃんは「分かった?」と悲しげな笑みを俺に向けた。そんな顔は初めて見たので、俺は自分の目がまん丸になるのが分かったぐらいだ。
「何人かいたセフレも、この痣見て、みんな離れて行った。まぁ、セフレなんて必要ない存在だけどね。富樫は会えばセックス、拒否れば暴力。彼氏が出来たって言った時は、殺されるかもって思うぐらい強く蹴られたし。でもさっきみたいに、優しく抱きしめてくれる事もあるんだ」
口調は変わらないのに、ぼたぼたと垂れてくる涙に曽根ちゃん自身が驚いている様子だった。俺は目に入った箱ティッシュから数枚抜いて、彼女に手渡した。
「富樫って、何歳なの」
「十九」
年下かよ! 俺は心の中で突っ込んだ。どう見ても俺より年上だろ。
「あのさ、年末に久野夫妻が、鍋やらないかって言うんだけど。四人で。どう?」
場違いな誘いだとは分かっていた。今はシリアスパートだと言う事は理解している。だけどここから抜け出す術が俺にはないのだ。あの身体を見てすぐに、彼女を抱いてやろう、そんな風にも思えない。俺はとても無責任だと自責の念に駆られる。
だけどそれも彼女の笑顔で吹き飛んだ。
「いいよ、行くよ」
それは酷く歪に作られた笑顔ではあったけれど、彼女自身がその空気から逃れようと必死で作った笑顔なのだと思うと、甚だかわいくて仕方がないのだ。
「そうと決まれば、電話だ!」
智樹の携帯を呼び出し、大晦日に鍋をやる事に決まった。それまでの二日間、富樫が来ても絶対に玄関を開けないという約束をした。が、その約束が守られる自信がなかった。彼女は完全に、富樫の術中に嵌まっている気がしてならないのだ。