(冬編)-2
「あなたが、カヨさんね…」
女が薄い唇を震えるように噛みながら低い声でつぶやくと、私は小さく頷いた。
「突然で申し訳ないけど、どうしてもあなたとお会いしてお話がしたかったの…」
店に入ってきた女を見たときから、私は、彼女が誰なのか気がついていた。
彼女は、イマムラの妻だった…。
「イマムラの家内です…」と、女は冷ややかに私を睨みながら言った。
彼女の視線を避けるべきなのに、私はまっすぐに彼女を見つめてしまった。どこかやつれたよ
うな彼女の顔には、目尻の皺がくっきりとした翳りを刻んでいた。
「初めてお会いしたけど、まだ、お若いのね…四十歳を過ぎた年齢かしら…私が何を言いにこ
こに来たか、あなたはわかっていると思うわ…イマムラは、私の夫であり、私たちには子供も
いるの…」
そんなことはわかっている…知りたくないのに、嫌でも知らなければならなかったのだ。
でも、それがどうしたというの…あなたがイマムラの妻であっても、私はイマムラを愛してい
る…ただ、それだけのことじゃない。心の中で繰り返す自分の言葉が、とても素直な言葉でな
いことはわかっていたし、理屈にもなっていなかった。
でも、私は、目の前のイマムラの妻にはっきり言えるほど彼を愛しているのか、ほんとうは戸
惑いさえ感じていたのだ。
「別れてほしいの…今すぐ、イマムラを私に返してほしいの…」
突然、すっと立ち上がった彼女の平手で、私は頬をぶたれた。そのとき、私はイマムラとの
関係を終わりにすることを決めたような気がする。
あれから、もう三年がたつ。そして、四十五歳になった私は、三回目のひとりだけの冬を迎え
ようとしていた。
「カヨ、今度のクリスマスのライブでは、歌ってくれるんだろう…久しぶりに、カヨの絶品の
ヴォーカルを聞きたいな…」と、カウンターに頬杖をついたケンジが言った。
音楽プロデューサーであるケンジは、私と同じ歳で、大学時代のバンド仲間だった、本業とは
別に、ジャズのライブハウスもやっている。
「…いやだわ、そんなんじゃないわよ…もう、ずっと歌っていないし、恥ずかしいわ…」
そう言いながら、私は、店の窓の外に瞬くイルミネーションにぼんやりと視線を運ぶ。
ケンジが、微かな笑みを私に向けながら、ゆっくりと煙草の煙を吐き、ジントニックのグラス
を手にする。そして、私に小さく囁いた。
「…この前、オレがカヨに言ったこと考えてくれたか…」
私は彼から結婚を求められていた。迷っていた…いや、迷っているというより、ケンジと結婚
するという意味がわからなかった。そして、そんな自分が苛立つくらいもどかしかった。
イマムラと別れてから、私は目が覚めたようにふたたび自分に戻ったような気がした。でも、
今もまだ、私の中のどこかに漂う彼の面影を、遠くへ押しやろうとしている自分と近くに引き
戻そうとする自分の気持ちが、心の谷間をさまようようにかけめぐっていた。