『BLUE』-30
「いよいよ本番ね。調子はどう?体調は万全にしとかないとね」
「うん。調子はいいよ、今までにないくらいにさ。
これで明日良いタイムがでれば絶好調なんだけど・・・」
「大丈夫よ。私の特訓についてこれたんだもの、保証するわ」
といって水原は濡れた髪をかきあげた。
その仕草がプールに映るのをじっとみてた涼生は、バックから手にとったハンドタオルをそっと彼女に渡した。
「使えよ、まだ新しいヤツだから」
「いいの?」
ありがとう、と素直に彼女は受け取ると頭を軽く拭いてから包むように肩に掛けた。
息をつくと水原は伸びていた脚を前かがみになって抱くと、ぽつりと今度はため息を洩らした。
「ねえ、明日は私、うまくやれるかな・・・?」
と彼女はいった。
「不安なの・・・」
「不安?」
「うん。大会の日の前の夜は、いつもそう。
何度も落ち着こうって思ってるんだけど明日のこと考えると、それだけで胸が押し潰されそうになるの。」
「でも、水原は優勝候補だろ?他の人だってみんな君に期待してる」
「駄目なのよ、みんなの期待に応えていくたびに、私にかかるプレッシャーが増えていくたびに、挫けそうになるの。もう何年もやってきたけど慣れないものね。」
水原はそういって胸を押さえた。もしかしたら今夜も、弱気な自分を諫めようとこうして夜風に当たりに来たのだろうか。いつも強気でプライドの高い彼女の、初めてみせた表情だった。
涼生は少し戸惑ったが、意を決すると震える水原の手をそっと握った。
彼女の不安を少しでも消してあげればとおずおずと差し出した右手だったが、水原は嫌がるような素振りは見せずにぽつりと呟いた。
「臆病よね、私・・・」
「そんなことないよ」
彼女は静かにかぶりを振った。握り返された手に力がこもる。
「あったかい・・・。
ねえ、もう少し、このままでいてくれる?」
涼生は頷く代わりに置いていた掌をしっかりと握り直した。
木立から蝉の声が止み、月明かりに照らされた水面に二つの影が寄り添うように映り、そして揺れた。
《――プログラムNo.11。100m男子バタフライのコース順を申し上げます》
ノイズの激しい場内アナウンスに耳を傾けながら、涼生は手もとのプログラムに目を落とした。
ページを一枚めくって放送された競技名と照らし合わせる。知ってる名前を探したが数ばかり多くて分かりにくかった。
その中に木本の名前があった。最終組の3コースに表記されている所をみると、かなり速いほうらしい。
もしかしたら申し込み用紙を欲張ったタイムで提出したのかもしれない、彼がいつもやっていたことだが否定する気はなかった。
なぜなら涼生も同じ方法で競技タイムを上乗せして申し込んだからだ。
理由はもちろん深間と同じ組でスタートする為だった。
慣れない種目、しかも短距離の選手だった彼が涼生の意向を聞いて、自ら種目を合わせてくれたのだ。
それにもかかわらず深間の名前は最終組の真ん中、最も速い場所に書き記されていた。
予想はしていた。想像以上ではあったが、彼がここまでのレベルに上げてくることも心のどこかで感じていた。
それは以前彼とのレースに負けた時からずっと感じていた畏怖だったのかもしれない。