月虹に谺す声-7
月郎にとって、男の気持ちは痛いほど理解できた。それは狼の門に拒絶された時の、愛おしい姉と別離した時の耐え難いまでの苦痛と同じであった。
「だから“僕たち”は世界を受け入れるべきだったんだ。そして、自ら世界を変えるべきだったんだ」
月郎の言葉に、踞った老人が意外そうな顔を見せ、そして神妙な面持ちを見せる。しかし、当の男の方には全く承伏できない言葉であった。それが、男に残された僅かな良心の痛みであるのか。
「今更ッ！！」男は猛り狂った。「お前に何が解る！！お前にこの俺の何が解るって言うんだッ！！俺の世界は俺に手を差し伸べることはなかった。人々の瞳の奥深くには哀れみと同時に常に蔑みと嘲笑が潜んでいた。この広い世界に存在しながら、この人の溢れる世界に存在しながら俺は何処までも孤独だった。だから俺はこの世界から決別することにしたんだッ！！」
男の叫びを耳にし、老人が彼を嘲った。
「だから人間に復讐しようとしたのか？人の世界が向こうから自分を排斥するようにし向けたんじゃな？哀れな男じゃ。その少年の言うとおり、狼の門が拒絶したのはお前の魂が人に近しいからじゃ。そしてその自分勝手な自己憐憫こそ、お前さんが人の世界に固執している証拠じゃ。泣こうが喚こうが誰もお前さんを救ってはくれない。自分で変えていくしかないんじゃ…」
「変える？何を変えるって言うんだッ！！この血塗られた手で何を変えるって言うんだッ！俺は自分のやっていることを信じて疑わなかったッ！人を殺し、人間性を失うまで行けば狼の門は向こうから迎えに来てくれるはずなんだっ！」
男は涙を流して慟哭した。そして、その感情の高ぶりは次第にその姿を変貌させていく。筋肉が大きく隆起し、衣服が裂け、内から黒い毛の塊が這い出してくる。
それはやがて、子牛ほどもある黒い大きな狼へと変貌した。
「そうだ、今更何を変えるって言うんだ…？俺は今まで通り、自分の信じたようにやっていけば良いんだ…。何処までも何処までも、行き着くところまで行き着けば、俺の世界は変わるんだ…。そうでなくちゃいけないんだぁあっ！！」
黒い狼は躯を踊らせると、月郎に向かって牙を剥いた。しかし、月郎は殉教者が贖罪を甘受するように、両手を広げ、狼の牙を自分の身体で受け止めた。
「世界を変える方法はもう一つある…」
呟く月郎。
「何考えてんだ、彼奴ッ！？死ぬ気！？」
悲鳴にも似た叫びをあげる紅蘭。そして次の瞬間、彼女は反射的に狼に体当たりし、月郎を抱えて転がった。
しかし、狼の鋭い爪が彼女の白い背中を切り裂く。
「ぐぁっ！？」
鋭い痛みが走り、身体を仰け反らせてくぐもった悲鳴を上げる紅蘭。しかし紅蘭はそれでも月郎を庇いながら、腕の中の月郎に語り掛けた。
「あんたが死ねば、世界はあんたを失った世界に変わる、…ってことかしら？あたしも頭悪いけど、あんたもつくづく莫迦だね。あんたの世界はそれで良いかも知れないけど、あたしの世界じゃそうはいかないんだ…」
爪をぐいぐい食い込ませ、黒狼は紅蘭を嘲笑った。
「莫迦な女だッ！どのみち二人とも死ぬんだ。その順番なんてどうでもよかろうッ！」
そう言うと、黒狼は涎にまみれた牙を紅蘭の首筋に食い込ませた。
「うあ…、ば、莫迦は先刻御承知だって…。だけどさ、人狼にだって仲間への帰属意識ってのがあってもいいだろう…」
そう言って、力無く笑う紅蘭。その華奢な身体の下で、月郎は低い呻き声を上げた。
「ううう…うぁ…う、…ぐぅああああああああ」
やがてその唸りは次第に大きくなり、大地を振るわせる。
刹那、中天に輝く巨大な月に照らされて、銀色の麗獣が宙を舞った。
銀色の狼に変貌した月郎は、黒い狼に襲い掛かった。突然の出来事に黒狼は紅蘭から牙を放し、慌てて飛び下がる。
「あの坊主、ハウリングを起こしおったか…」
呟く老人。人間に限らず、群で行動する動物には感覚を共鳴させる機能が備わっている。そして高ぶった感情が相手の感情と呼応し、無意識に狼に変身することを人狼達は自ら“ハウリング”と呼んでいた。
風にぎいとブランコがかしぐ音。
相手の悲しみが自分の悲しみとなり、相手の憎しみが自分の憎しみとなる。感情が呼応し、雪崩を起こす。生きていては得られない物。殺さなければ得られない物。
幾分成長した月郎は体躯で黒狼に劣らなかった。修羅場をくぐり、精神的にも肉体的にも強くなると言うことは、同時に自分の強さに対して過信し、歯止めが利かなくなることとなる。それが、自我を失い、凶暴性だけが増幅した月郎なら尚のこと。憎しみと悲しみに心が支配され、月郎は相手を喰い殺そうと喉を鳴らし、濁った牙を剥く。