脚の長い彼、斎川霞-1
「八千草さん、今日こそ奢ってくださいよぉ」
PM6時、残業を終えた同僚達が足早にデスクをあとにして行く。
そんな中、まだ黙々と斎川霞はキーボードを叩き続けていた。
「ねぇ、八千草さん」
甘ったるい声が右前方から聞こえる。
いつものこと、と霞は苦笑する。
別の部の女子数名が、まだ残業を続けている八千草を甘えた声で取り囲む。
「いやぁ、行きたいのは山々なんだけどね。今日は抜けられない予定があるんだよ」
優しい声色で笑みを絶やさず八千草は答える。
今日は、じゃなくて、今日も、の癖に。
「じゃあ次こそは」
「約束ですよ」
そう喧しく言いながら去っていく彼女達に、同情すら覚える。
この男に約束など皆無なのだから。
「ふー。うるさくしてごめんね、斎川さん」
ちっとも悪いと思ってないくせに、この男、八千草は書類を抱えて霞に振り返る。
しっとりとした黒髪は柔らかそうで、光沢のあるグレーのスーツに清潔感のある水色のシャツ、紺と紫のストライプ地のネクタイ。
「なぁ、カスミ」
然り気無く真後ろに立ち、PC画面を覗き込むふりをしてそっと耳元で囁く。
シャツから伸びる浅黒い肌、ステンレススティールが輝くタグホイヤーの時計、骨と筋が目立つ手の甲。
馴れ馴れしく囁く声は低めで、しっとりとした甘さを滲ませていた。