第4話-1
今日は一段と冷え込んでいる気がする。
そう思いながら、教室の隅の席に座っている女生徒は、徐に窓の外に視線を向けると、灰色の空から、白い粉雪がちらちらと舞い降り始めている。
(どうりで、寒いはず…)
あまり、雪の降らないこの地域では珍しい。
その儚い美しさに魅せられてか、彼女の表情にも、自然と笑みが零れる。
女生徒の名前は、水越英里。
ストレートの長い黒髪と、眼鏡越しに映る瞳は、硬質な印象を与えるが、親切で面倒見が良い典型的優等生タイプ。
しかし、他人とは一定の距離を置いて付き合うという、冷めた部分も持ち合わせている。
長い睫毛に縁取られた、黒みがかった茶褐色の瞳は、しんしんと降り頻る雪を、興味津々といった様子で見つめ続けている。
(雪、積もるかな…)
一面に広がる、白銀の世界。想像するだけで、彼女の胸はまるで幼い少女のように弾むのだった。
そして、そんな彼女の愛らしい一面を、教壇の方から穏やかな表情で眺めている教師。
彼の名は、長谷川圭輔。教師になってもうすぐ1年になる。
漆黒の髪と、すっきり通った鼻梁に切れ長の涼しげな目元は、とても爽やかな印象を与える。そんな男前な外見の彼だが、温和で気さくな性格のため、男女共に生徒受けが良い。
―――今はもう2月初旬。
高校3年生の英里のクラスは、受験やら何やらで生徒の出席率も低く、大体の授業カリキュラムも終わっているので自習時間が多い。
圭輔が数学を受け持っているこのクラスも、今は自習中だ。
案の定、一番後ろの席に座る英里は何をするでもなく、ぼんやりと外を眺めている。
艶めいた黒髪と、彼女の白い肌に紅い唇はよく映える。
「水越さん、自習プリントはもう終わりましたか?」
「はい」
振り向いた彼女は、特に動揺するでもなく、さらりとそう言ってのける。
まぁ、そうだろうなと内心思いつつも、とりあえず教師として圭輔は彼女に声を掛けた。
素行も成績も良い彼女は、推薦でもう早々に進路は決まっていた。
圭輔から顔を逸らすと、再び窓の外で舞い踊る白い雪に英里は胸躍らせる。
そんな彼女の白いうなじを圭輔は見つめた。
…教師と生徒。普段、傍から見れば、それ以外には全く接点のなさそうな2人。
誰も、気付きはしないだろう。この2人の関係を。
そして、チャイムが授業時間の終わりを告げる。
広々とした図書室内は、利用者も少なく何だか寒々しい。
カウンターで文庫本を読みながら、英里は静かに時を過ごす。
3年間図書委員だった彼女にとって、ここは一番多くの時間を過ごした思い出の場所といっても過言ではない。
ここの雰囲気も、独特の本の匂いも、全てが自分に馴染んで心地よい。
穏やかな時間に身を任せていると、次第にうとうととしてきた。
眠りたくなる気持ちを必死に堪えて、英里は図書室を閉める時間まで手元の文庫に目を落とす。
時間が過ぎ、戸締りをして職員室に鍵を返しに行くと、仕事をしている圭輔の姿があった。
英里は、ドアの外からその背中を見つめた。
こうやって、職員室の入り口のドアから彼の後姿を何度見つめた事だろう。それも、もう少しで終わりだ。
本当だったら、3年生は定められた登校日以外はもう高校に来なくても良いのだが、英里はできるだけ登校するようにしていた。
家にいても仕方がないし、教師としての彼に会える期間は、あと残り僅かなのだから。
「…先生、お疲れ様です」
英里は、邪魔をしないように極力声を抑えて呼びかけた。
「あ、水越さん」
振り向くと、相変わらず穏やかな教師の表情の圭輔が、優しい眼差しを彼女に向ける。
「大変そうですね」
「期末テストの採点だけだから、担任のクラス持ってる先生に比べれば今の時期はよっぽど楽だよ」
そう言った彼の机の上には、多くの答案用紙が置かれていた。
「あの、じゃあ、私、お先に失礼します」
何も手伝える事もないので、英里は職員室を出ようとしたところを、圭輔に呼び止められた。
「送るからちょっと待ってて」
「でも…」
「ちょうどキリのいいとこまで終わりそうだから。最近、この辺で痴漢被害があったらしくてこんな遅い時間に一人で帰らせるの心配だし」
「そんな…私なんか狙う人いませんって」
苦笑交じりにそう言う彼女だが、
「何言ってんだよ。危機感薄いな」
呆れ顔で圭輔は英里の顔を見つめる。
彼女は自分の容姿に対してあまり意識してないようだが、磨けばかなりの美人であることは間違いない。
それに最近、どきりとさせられる程、大人びた艶っぽい表情をしてみせる時がある。
「先生って案外、心配性なんですね」
「心配したいんだよ。大事だから」
「え…」
一気に頬が紅潮してしまっているのが自覚できて、照れ隠しに英里は俯いた。
彼は恥ずかしげもなく、しかも予想もしないタイミングでさらっとあんな事を言うものだから心臓に悪い。
「……迷惑?」
「っ、いいえ、違います。……私って、そんなに危なっかしいかなぁって…」
「そうかもね。何かたまにぼーっとしてる時あるし」
「そんな事ないですよ!」
未だに彼女の鼓動は高鳴ったままで、つい早口で捲くし立ててしまった。
鷹揚に作業を続けている彼の様子が、何だか余裕の差を見せ付けられているようで悔しい。
「…よし、終わった。お待たせ、帰ろ」
そんな英里の心情を知ってか知らずか、彼は英里の方を向いて微笑んだ。