第1話-9
翌朝、英里がマンションの下に降りると、既に圭輔は来ていた。
英里は、緊張気味に精一杯の笑顔を見せた。
「おはようございます…早いですね」
「あ、あぁ…おはよう」
圭輔も挨拶を返す。
初めて見る制服以外の英里の姿は、彼の目に新鮮に映った。薄い水色の服は、スレンダーな彼女にとてもよく似合っていた。
英里にとってもそれは同じだった。私服の彼は、普段のまだ着慣れていないスーツ姿と違って、ちゃんと大学生に見えた。
「どこに行くか決めた?」
「えっと、遊園地、なんて…どうでしょうか?」
そう言った後の、意外そうな圭輔の顔を見て、英里は不安になる。
昨日友人に電話で相談に乗ってもらい、熟考に熟考を重ねた結果、導き出した場所だったのに、おかしかっただろうか。
確かに、ありきたりといえばありきたりだが…。
「いや、水越さんがそういうとこ行きたがると思わなかったから」
「…。」
一瞬、英里の顔が曇るが、圭輔はその彼女の微々たる変化に気付くことはなかった。
やはり、自分はそういう場所にそぐわない、つまらない子だと思われていたのだろう。
優等生、真面目、でも人間としての面白味が欠けている。
自分は無価値で、人を惹きつける魅力のない人間。
こういう小さなきっかけの積み重ねが、今の彼女の姿を形成するに至った。
自分自身を受け容れられない人間が、他人に受け容れられるわけがない。
いつも頭の片隅にこんな考えを抱いた、卑屈な自分は、彼の目にどう映っているのだろう。
今更それをどうこう言っても仕方がない。気を取り直して、英里は圭輔に尋ねる。
「先生は、どこか行きたいところありますか?」
「いや、今日は水越さんが行きたいところに付き合うよ」
「でも…」
「遊園地、行きたいんだろ?」
他に行きたいところが即座に思い浮かばず、英里は無言で頷く。
「じゃ、行くか」
ぐっと、手を握られて、驚いた英里は思わず手を振り解いた。
「あ、ごめん、つい」
圭輔も慌てて、英里の手を離す。
「…いえ、私こそすみません」
今度は軽率な行動を取らないように注意しながら、圭輔は英里に車に乗るように促す。
それから何となくぎこちなくなってしまい、会話も途切れがちだった。
初っ端からあまりにも可愛くない態度を取ってしまって落ち込んだ英里は、こんな調子で、果たして今日1日どうなる事か、不安でならなかった。
―――しかし、それは杞憂に過ぎなかった。
楽しい時間ほど早く過ぎていく。
今日ほどその言葉の意味を、身を以て実感した事はない。
たった二週間だけの知り合い、ただの生徒と教育実習生という関係なのに、今日一日だけは、自惚れかもしれないが、誰から見ても自分たちは恋人同士だっただろう。
内面は、きっと互いの気持ちが交わるところなんて何もないだろうが、少なくとも、見た目は違和感がない2人だと英里は思った。
つい、圭輔の顔を見つめると、それに気付いた彼は柔らかく微笑む。
恥ずかしくて、その笑顔を受け止められずに、英里はすぐに視線を外した。
そんな彼の表情を見ると、また彼女に理解不能な気持ちが込み上げる。まだ、はっきりとは掴めないこの想い。しかしうっすらとだが、わかってきたような気がした。
…そして、おそらくこの気持ちがいずれ潰えてしまうであろう事も。
自分からこの気持ちを打ち明ける事は決してないだろうし、告げたとしても受け入れられないに決まっている。だから、伝える事はない。
この胸のもやもやは、彼の教育実習期間が終わればきっと消えてなくなって、また元通りの自分に戻るのだ。
友達同士や恋人同士、家族連れの客と、様々な客層で休日の遊園地は賑わっている。英里はぼんやりと流れる人波を見つめていると、圭輔から声を掛けられて、慌てて笑顔を見せた。
(…今は、そんな事を考えずに、ただ楽しもう)
「だいぶ日が落ちてきましたね」
空を見上げて、英里はぽつりと呟く。
「そろそろ帰らないとまずいだろ?最後に何か乗りたいのあるか?」
「じゃあ…」
軽く逡巡した後、英里は観覧車を指差した。
狭い観覧車内で向き合って座っていると何だか緊張してしまい、2人とも押し黙ったままだ。
時刻はもう6時過ぎ。昼と夜が混じり合い、沈みかけた夕陽が英里を照らす。
彼女のどことなく憂いを帯びた横顔が紅に染まる。
その姿に、圭輔はまた見惚れてしまう。
その光景は、あの時の姿と重なる。
初めて、彼女と話したあの夕刻。
彼女の横顔は何故かいつも物憂げに見える。
今日は、いつもクールな様子と違い、年相応の少女らしくはしゃぐ姿が可愛いと思っていた。
彼女のいろいろな一面を知る度、ますます彼女に惹かれていく。
だが、それも教育実習生としていられる間だけだ。
あと数日で、もう彼女との接点はなくなってしまうのだから。
遠くに思いを馳せるように観覧車の窓から外を眺めていると、突然、英里が口を開いた。
「夕方は…嫌いです」
一瞬、圭輔はどう答えたら良いか分からず、返答に詰まる。
「俺も…子どもの頃は嫌いだったよ。ずっと友達と遊んでいたいのに、夕方になったらうちに帰らないといけなくなるのが淋しかった」
その話を聞いて、英里は複雑な微笑を浮かべた。
それはとても儚くて淋しげな微笑だった。