第1話-3
「…水越英里さん…だっけ?」
ところが、そんな英里の思惑も知らず、圭輔はいつも通りの口調で英里に話し掛け始めた。
「私の名前、覚えているんですか?」
抑揚のない口調で、英里は言った。
「あぁ、大体クラス全員名前覚えたつもりなんだけど、まだ顔と一致しなくて…」
圭輔は苦笑いのようなはにかんだ笑顔を浮かべた。
20歳を越えているのに、笑うとまだあどけなさが残っている。英里は彼の顔を目だけでちらりと見ながらそう感じた。
「たった2週間なのに、わざわざ名前なんて覚えなくたって…」
「2週間でも、せっかくこうやって何かの縁で出会えたんだし、俺は仲良くしたいと思ってるんだけどな」
そう語る圭輔の瞳は輝いていて、期待に満ちていた。
私の嫌いな人種だ…英里は瞬時に察した。
「この学校は水越さんにとってどんな感じ?」
「自由な校風で、とても良いところだと思います」
至極簡潔に、そして投げやりに答える。
「そうか」
それ以降、英里は日誌だけに目をやって、圭輔の顔を一度も見ようとはしなかった。
そんな彼女にお構いなく、彼は自分の高校時代などの話を勝手に話し続けている。
圭輔と会話をすればするほど、自分と全く違う価値観を持つ人間だということがわかる。そして、それは英里を無性にいらつかせた。
卑屈な考えだと思うが、そういう思考回路になってしまっても仕方がない生き方をしている自分からすれば、前向きな彼の話に同調できず、うっとうしい事この上ない。
自分自身に対して素直に生きていて、誰からも無条件で好意を向けられるような、そんな自信を滲ませているように感じられてならなかった。
きっと、彼は本当に誠実な人柄なんだろう。
全く境遇の違う他人を妬んでしまう自分の方が、屈折しているということは十分わかっていた。
それでも、これ以上彼と対峙していると、自分の中に押し込めている何かが爆発しそうになる。
苛々して仕方ない。いつものペースを乱される。
「…先生は、どうして教師になりたいなんて思ったんですか?」
特に聞きたかったわけでもないのに、ふと英里の口からこんな問い掛けがこぼれた。
「そうだなぁ。俺、学校好きだったから、ずっと携わっていたかったというか…単純な理由だけど。高校時代とか一番楽しかったな」
学校が好きだなんて、鼻で笑い飛ばしたくなる理由だと英里は思いながらも、そんな様子はおくびも出さずに、作り物めいた笑みを見せた。
「へぇ、そうなんですか」
さらさらと軽やかにペンを走らせながら、彼女は心にもない台詞を口にし続けた。
これ以上白々しい会話を交わし続ける位なら、早くこの場から立ち去りたい一心だった。
「…書き終わりました。お待たせしてすみません」
顔を上げると、英里は圭輔の視線に気付いた。
「何か?」
「水越さんは、真面目なんだな。教生の俺なんかにも敬語使って。いつも話し掛けてくる子達なんか、一応年上なのにフツーにタメ口だからなぁ」
苦笑いを浮かべながら語りかける、眼鏡のレンズ越しに映った、彼の表情。
その瞬間、彼女の中で抑えていた何かが弾けた。それと連動して体が動いていた。
温かい感触が唇に伝わる。同時に、ふわりと頬を撫でる、黒い髪。
圭輔は薄く口を開いていたので、そこに触れる直前、吐息が漏れた。
数秒間触れただけの、軽いキス。だが、英里にとって初めてのキスだった。
「!?」
圭輔は驚きのあまり、目を大きく見開いた。すぐ近くにある、まだ見慣れない少女の顔。
英里はすっと唇を離すと、軽く手の甲で触れた部分を拭った後、軽く一息を吐いた。
その瞳は、強い視線で彼の瞳を射抜いている。
「…先生、私、全然真面目なんかじゃないでしょう?」
無表情にそう言い放つと、机の上に書き終えた日誌を置いたまま、英里は教室を後にした。
心臓の鼓動は高らかに、全身を震わせている反面、頭の中は冷えていた。
何故、こんな行動に出てしまったのだろう。
単にあの男が煩わしくて、困らせてやりたかっただけかもしれない。
とにかく、真面目だと言われたのがとても癪に障った。
いつもいつもそう言われるのが当たり前、それにうんざりしていた。
しかし、目の前にいる男はたった2週間でここからいなくなるのだ。
…どんな自分を見せようと、この男はすぐにいなくなるのだから。何もかも、どうでもいい。
「何なんだよ、一体…」
一人、教室に残された圭輔は呆然と、立ち去る英里の背中を見つめ続けていた。
彼女は一見、とても大人しそうな少女に見えた。
放課後の教室でただ一人日誌を書いている姿も、どことなく哀愁を漂わせていた。
それが、突然あんな行動を取るなんて、思いも寄らなかった。
そして、彼女の瞳。
普段、眼鏡の奥に隠れている瞳が強い光を湛えて圭輔を見つめている。
白い顔は夕陽を受けて赤く染まり、笑みの形を作った唇はつやつやとしてさらに紅い。
その様子が、普段の目立たない印象の彼女からは想像もできない程美しかった。
今の圭輔がいくら考えても、英里の突飛な行動は到底理解できなかった。
2本の指で、軽く下唇に触れる。ほんの少しだけ触れた彼女の熱。キスとはいえない位に幼い、稚拙な触れ合い。それなのに、あんなに鮮烈な印象を与えるキスは、初めてだ。
……わかるのは、まだ自分の唇は彼女の唇の感触を覚えているということだけだった。