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深海の熱帯魚
【純愛 恋愛小説】

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.34 矢部君枝-1

 花見(結局桜は見ていないけど)の翌々日に、至君と拓美ちゃんが付き合う事になったと訊いて、私達三人は耳を疑った。
「ホントだよー」
 ちょっと膨れっ面になった拓美ちゃんの言葉に驚き、塁も智樹君も至君の頭やら背中やらをバシバシ叩きながら「良かったな」「飼い主が見つかったな」と祝った。

 私達三人は、結局よく分からない関係のままだ。
 お互いの心の内を知った事が、良い事なのか、悪い事なのか。まぁ悪い事ではないのかも知れないけれど。
 少なくとも、話しづらいとか、接しにくいとか、そういう事態にならなくて良かったと思っている。
 桜は散り、青葉が芽吹き、昨年バーベキューをした、丁度梅雨入りの季節になった。
 庇に当たる単調な雨音を聞きながら、塁のいない部室で、会話に花を咲かせていた。
 塁は講義で遅くなる、と先程携帯にメールが着たところだった。私にメールを寄越すようになったのは、あの日、お互いの心を知って以降だ。それでも、本当に時々。実用的なメールだけだ。

 ドアノブが下がり、ドアが開くと「ウス」と言って塁が入ってきた。それぞれ「お疲れー」と声を掛ける。いつもの光景。
 そのまま奥のテーブルの前に座り、脚をあげてポケットからガムを取り出した。
「いる人ー」
 手を挙げた人数分だけ私が塁から受け取り、皆に配った。
「あのさぁ」
 ガムをくっちゃくっちゃと噛みながら塁が声を上げた。
「俺ね、大学、退学する事になったから」
 ガムのくちゃくちゃは、塁の口からしか聴こえなくなった。皆、動きが止まった。
「退学?」
 智樹が顔をこわばらせて塁を見た。
「そ。親の遺産が少しばかり残ってたからそれ使ってフランスに行こうかと」
「フランス?」
 私もうまく笑顔が作れなくて、おかしな顔で訊いた。
「うん。向こうで本格的に絵の勉強して、絵で食っていけるようになって日本に戻って来よっかなーってさ」
 留学しようと思う、ではなく、退学する、なのだ。これから暫く、塁には会えなくなるという事だ。いつ会えるかも分からない。
「いつから?」
 至君は既に涙目で、それを見た私も実は少し涙目になった。
「八月の終わりにフランスに渡って、九月には向こうで生活できるようにする」
 塁の抑揚のない語り口ではとても簡単な事の様に聞こえるけれど、日本語でも英語でもない、フランス語で生活する事になるなんて、きっと大変だ。そういえば時々、フランス語の教科書をぱらぱら見ていた事を思い出す。
「俺さ、親戚の家で暮らしてっから、他人の家で暮らす事って結構苦にならないんだよね。だから向こうでとりあえずは、ホストファミリーに温かく迎えられ?その後、部屋借りて自活して?フランス人になってこっちに帰ってくるから」
 淡々と喋っているのは塁だけで、他の四人は静まり返っている。だってあと二カ月しかない。二カ月しか一緒にいられない。
 どうしてもっと早く言ってくれなかったんだろう。そんな事を責めても仕方がないと思い、口を噤む。
「まぁ一生フランスにいる訳じゃないから。数年かそこらで帰ってくると思うし、向こうのバカンスの時なんかは日本に戻ると思うし。あ、まぁ手元に金があればね」
 皆、笑いたいのに笑えないでいる。私もそうだ。至君は涙目のままで塁を見ているし、拓美ちゃんは呆けたような顔をしている。智樹君は俯いたまま動かない。私は......。
「頑張って来てよ。立派な絵描きさんになって戻っておいでよ」
 目の端にたまった涙なんて眼鏡のフレームで見えないだろうと思って私は思い切って笑った。
 塁は私を手招きしたので、私は椅子から立ち上がってとぼとぼとそちらに歩いて行くと、手招きしていた手で私の頭を撫でた。いつかしてくれたように、何度も。
 何だかその手がやけに熱っぽくて、炙り出されるように私の目から涙がぼたぼたと床に落下していき、そのうち呼吸すら危うくなるほど嗚咽が止まらなくなった。
「おいおい、まだ行かねーぞ」
 そう言って塁が立ち上がる雰囲気がして、そのまま私は塁の胸に抱かれた。ふと、塁って結構背が高いんだなと思った。初めて感じる塁の匂いを、これを覚えておこうと、忘れないでおこうと思うとまた涙が溢れて来てしまって、暫くは胸を借りていた。


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