.32 矢部君枝-2
「中学の時、義理の父親に三回、犯されたの。近親相姦ってやつ」
智樹君は、ある程度察していたのか、さほど驚かず「うん」と優しい声音で頷く。
「その人が、凄くカッコイイ人で、背も高くて、手も大きくて。初めは自慢の父だったんだけど、そんな事があって以来、男の人に触られる事が苦手になったの。特に」
隣に居る智樹君の手を取った。手のひらを大きく広げた。
「手が大きい人とか、カッコイイ人、背が高い人。凄く苦手だったんだ」
その手のひらをパン、と叩いて、彼の膝に戻した。
途端に、両目からぽたりと雫が落ちた。この件では一度も泣いた事が無かったのに。ため込んでいた何かが、我慢していた何かが、決壊したみたいに涙がぼたぼたと落ちてきた。
智樹君は私の背中を大きな手で擦ってくれた。ティッシュを手渡してくれて、落ち着くまで待っていてくれた。
「その、苦手な男の網に引っ掛かったのは俺で、塁はそこには引っ掛からなかったって事?」
私の瞳の中を覗き込むようにしてこちらを見る智樹君の目は、とても優しかった。
「塁も初めは苦手だったよ。ぐいぐい積極的に引っ張っていく感じとか、凄く苦手だった。けど塁と話していくうちに......塁の素直な所が好きになった」
夏の夜、男の塁が、男の智樹君に思いを寄せている事を自分に告白してくれた。素直で、真っ直ぐで、何も考えて無さそうに見えて実は色んな事を考えている優しい性格の持ち主である事が分かったから、塁に惹かれた。
「俺の、事は......?」
智樹君は遠慮がちに呟いたので、私は一つ息を吸って、吐いて、それから口を開いた。
「智樹君はとにかく優しいから。私にも優しいけど、特に、塁に優しいから」
よく分からないような顔をして顔を傾げている。それもそうだ。塁に優しいから好きだなんて、変な理由だ。
「これから言う事は内緒にしておいて。塁は、同性愛者じゃないけど、智樹君の事が好きなの」
「は?」と息を吸ってるんだか吐いてるんだか分からない声を上げ、私を見るその目は、何とも形容のし難い揺らぎを見せていた。
「だから、そういう事をカミングアウト出来る塁も好きだし、そんな塁に優しくしてる智樹君を見てたら、何か自分が優しくされてるみたいな錯覚を起こして、好きになっちゃった、みたいな?」
結局よく分からないのだ。好きになるのに理由なんていらない。何か、好きかも。そんな所から始まる恋があって、いいんだ。触れてしまったから好きになったとか、喋ったら好きになったとか、そういう明確な理由なんていらない。何となく好きになった。それで十分じゃないか。
「じゃぁ矢部君は俺の事も好きだという事で、ファイナルアンサー?」
いきなり後ろから塁の声が響いたのでギョっとして二人とも後ろを振り返ると、不敵な笑みを浮かべる塁が横たわっていた。
「俺の事も智樹の事も本気とあっちゃ、こっちも本気で行かないとねぇ、智樹」
智樹君は首の後ろをぽりぽりと掻いている。言葉が見付からないといった感じだ。
「いつから聞いてた」
後ろを振り返らず塁に冷たい言葉を掛ける智樹君は、少しばつが悪そうだ。
「矢部君が俺の事を好きだって所から大体聞いてました。矢部君、余計な事喋ったから明日のお昼ご飯は君が一人で作りなさい」
余計な事。ぴんときた。塁が智樹君の事を好いているという話か。あれは聴かれたくなかった。
塁は起き上がって伸びをした。
「おい、もう大丈夫か?」
智樹君が塁の首筋を触ると「おぉ、もう下がったみたいだなぁ」と言い、塁は「もっと触って」とふざけた。塁の、こういう正直な部分が好きだなぁと思い、私はニヤニヤしながらその遣り取りを見ていた。
塁はテーブルの方へやってきて、残っていた缶チューハイとポテトを食べ始めた。
「何かさ、俺ら何やってんだろうね」
愚痴っぽく言うので私は「何が?」と寝起きの塁を見遣った。茶色いストレートの髪の一部がぐしゃっとなっている。
「好き好きの連鎖でさ、何も生まれないの。バカみたい」
私も智樹君もプっと吹き出すと「笑い事じゃありませんよ」と塁は咎めた。
確かに、私は二人の事が同じぐらい好きだから、どちらかを選べと言われても選べないし、智樹君と塁は結ばれる事のない性に生まれて来てしまっている。何も生まれない。
「でもさ、自分の事を好きでいてくれる人がいるって、幸せじゃない?」
「そうだよ、俺だって塁に好きだなんて思ってもらって、幸せだよ」
ポーカーフェイスの塁の顔が珍しく赤く染まる瞬間だった。カメラで撮って脅しに使ってやりたいとさえ思った。
「でも俺は智樹にケツの穴差し出す予定はないからな」
智樹君は盛大に笑い「お前が下って決まってんのかよ」と言ってまた大笑いした。