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深海の熱帯魚
【純愛 恋愛小説】

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.32 矢部君枝-1

 塁が私の事を本気で好きだ、なんて言われても......。困る。それを智樹君に言われるなんて、もっと困る。
「塁の事、好きでしょ?」
 当然の事の様に言う智樹君が不思議だった。何でそう思ったんだろう。私の行動ってそんな風に見えたんだろうか。
「好き、だけどさぁ」
 智樹君は下を向いて少し笑い少し掠れた低い声で「相思相愛じゃないですか」と呟いた。
 静まり返った部屋の中では呟き声だってはっきり聞こえる。その後ろで、スースーと塁の規則的な寝息。静かなジャズバーで語り合っている様な静けさ。
「でもね、あの、こんな事言ったら可笑しいかもしれないけど、もう一人いるの、好きな人が」
 もう、全部言っちゃってもいいんじゃないかと思えてきた。塁の気持ちも分かったし、私が塁に惚れている事もバレた。
 あとは智樹君の事が好きだ、で終わりでいいじゃないか。そして智樹君には好きな人がいる。それでいい。それで終わりでいい。
「誰?俺の知ってる人?」
 私は人差し指を天井に向けて、それを徐々におろし、智樹君の胸に向けた。終わった。これでいいんだ。
「智樹君に好きな人がいるのは知ってるけど、それでも智樹君の事が好きだったんだ。という訳で、この話は終わりにしようか」
 私は呑みかけのチューハイに手を伸ばし、ひと口飲むと「......じゃないよ」と低い声で智樹君が何か言うのが聞こえた。
「何って言った?」
「終わりじゃないって言ったの」
 智樹君は下を向いているけれど、私には分かった。これで三回目だ。あの顔を見るのは。彼は顔を上げないままで「俺の好きな人は、君枝ちゃんだ」とはっきり、ゆっくりと言った。
 私は息を吸い過ぎて過呼吸になるかと思った。現実だとは思えなかった。
「どうしよう」
 私はそんな間抜けな言葉しか思い付かなかった。どうしよう。相思相愛が二つになってしまった。
「どうして私なの?」
 あんなに綺麗な彼女がいたのに、その彼女を振ってまで、何で私なんかを好きになったのか、不思議で仕方が無かった。
「知りたいと思ったんだよ」
 智樹君は焼き鳥を一つ、手づかみでぽいっと口に入れ、続けた。
「男の人が苦手だって言ってた。その理由を知りたいと思ったし、助けてあげたいと思ったし、色んな事が知りたいと思ってたら、いつの間にか好きになってた」
 私は声が出せず、代わりに下まぶたに涙がたまるのが分かった。
「ちょ、泣かないでよ、俺変な事言ってないからね?泣かないでよ?」
 涙目はすぐにバレてしまって、私は頷きながらそばにあったティッシュで目を押さえた。
「この前、ここに泊まった時、手を握って寝てたでしょ?」
 智樹君はちょっと顔を引き攣らせて「あぁ」と軽く頷いた。
「あれ、私が握ったの。手を握って眠りたくてあぁやったの。私のせい」
 彼は目を丸くして「そうなの?」と素っ頓狂な声をあげた。
「男の人の大きな手が、凄く苦手だったんだ。だけど、智樹君の大きな手は、大丈夫で、暖かくて、握って寝ちゃったの」
 言いながらどんどん恥ずかしくなって、私は最終的には真下を向いていた。視界に入るのは自分が履いている小花柄のスカートだけだ。
 智樹君はテーブルの向こう側から、私の隣に席を移動してきた。二人の背後に、塁の寝息が聞こえてくる。
「あのさ、話したくなかったらいいんだ。でも、もっと色んな事を知りたいんだ。どうして男の人が苦手になったのかって。訊いてもいい?」
 私は迷った。夏の砂浜で、塁にも訊かれた。その時はまだ、話す気は無くて断った。あの時はまだ、リハビリの最中だった。でももう今は、彼らと身体が触れ合う事に何の躊躇も無くなっている。
 そろそろ、吐き出してもいい頃だと、思った。


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