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深海の熱帯魚
【純愛 恋愛小説】

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.29 矢部君枝-1

 塁が部室に顔を出さなくなって一ヶ月が経った。
 バレンタインに渡そうと思っていたチョコも渡しそびれた。
 広い構内で、学部が違うとなると、講義で顔を合わせる事は殆ど無いし、ばったり顔を合わせる事なんて偶然もない。
 食堂も使っていないことは、前々から知っていた。彼を探す手立てがない。携帯にメールをしてみても、返信が無い。もともとメールなんて使わない人間だ。電話をかけても出てくれない。

 あの日、塁の胸を鷲掴みにした智樹君の、引き攣った顔。無理もない。森先生が既婚者だったら塁がそう言うべきだった。
 だけど塁の言う事にも一理ある。私達は森先生のプライベートをきちんと調べもせずに二人をくっつけようとしていた。私に至っては、既婚じゃないかと疑っていながらも、後押ししていたんだから、智樹君に殴られてもいいぐらいだ。
 とにかく、あの日は何故か塁だけが一人、悪者の様に扱われていて、私はそれに納得がいかなくて、塁と話したかった。
 それに......純粋に会いたかった。一ヶ月も顔を合わせていないと、会いたくなるものなんだ。そんな所からも、やっぱり塁の事が好きなんだなと認めざるを得ない。

 部室の窓から、正門に向かう人の波が見える。私は窓に凭れ掛かり、ずっと人の流れを見ていた。見た事のない人ばかりが行き交う。大学とは巨大な組織なのだと実感する。
 芸術学部は、実技が入ってくる時期が早いという。そうなると、他の学部と行動パターンがかなり変わってくる。勿論理学部だって実験が始まれば今みたいに部室でだべってる時間なんて無くなるのかも知れないけれど。
 人の波の中に、見た事のある、からし色のダウンジャケットを着た人物が映った。私は部室にいたメンバーに何も言わずにさっとコートを羽織り鞄を持ち、マフラーは手に持ったままで部室を出た。走りながらマフラーを巻こうとしたがうまく行かなくて、結局マフラーは手に持ち、手袋も嵌めないままで走りに走った。ボタンを留めていないダッフルコートは風の抵抗を受けてなかなか前に進ませてくれない。
 やっと、目の前にからし色のダウンジャケットが見えた。大学の正門を出たあたりだった。
「塁」
 私が背中から声を掛けると、ゆっくりと振り向いた彼の顔は驚きの表情だった。
 息が整うまで時間が掛かった。塁はその場を離れる事無く、私の呼吸がまともになるまで待っていてくれた。
「今、話、できる?」
 やっと言葉を紡ぐと、彼はこくりと頷いたので「じゃぁ駅のとこのカフェにでも行こう」と言って歩き出した。歩きながらマフラーを巻いたので、髪がぐしゃっとなってしまい、見かねた塁が「髪、変だぞ」と言って私の髪を直してくれた。心臓の音が耳に響いて聞こえた。



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