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深海の熱帯魚
【純愛 恋愛小説】

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.28 寿至-1

 バレンタインが近づいていた。
 クリスマスからこちら、時々拓美ちゃんは部室に来ない日があり、そういう日は大抵、森先生と会っている日だった。
 話を聞く限り、もうすでに男女の関係になっているらしく、俺は落ち込む隙もなかった。
 今日も拓美ちゃんは部室に来ない。
「バレンタインはチョコでいい?」
 誰にともつかないその言葉に、俺は「いいよいいよ」と軽い返事をした。
 が、いつも通りに机に両脚を乗っけている塁が、抑揚のない声で「義理チョコなんて俺は貰っても嬉しくない」と言った。君枝ちゃんは焦った顔をしている。
「俺は義理でも何でも貰えたら嬉しいよ」と智樹が言う言葉に、少し表情を緩める。
 どうしてこう、塁のいう事はいちいち刺々しいのだろうか。
 特に、君枝ちゃんと智樹に対してだ。小学生が好きな子にいじわるするみたいで、見ていてもどかしい。
 やっぱり塁は君枝ちゃんが気になるんだろうなと、日常生活を見ていても思う事が多い。

「ドン」と音がして部室のドアが開いた。入ってきたのは拓美ちゃんだった。
 泣いた後なのか、目の周りを真っ赤にしている。俺と智樹は呆然と彼女を見、隅に座っていた君枝ちゃんは「どうしたの!」と駆け寄った。塁はまんじりとも動かない。
 拓美ちゃんの手には、クリスマスの時に森先生にあげた物と思われる、男物のマフラーが握られていた。握りしめていた。それを手に、足を引きずるように部屋の中に入り、パイプ椅子を組んで座った。
「森先生に、奥さんがいた」
 部屋の中の空気が一変した。複数の人間が一瞬にして息を呑み、室内の酸素濃度が下がるかと思った。
 ただ一人、静かに教科書を眺めている塁を除いて。
「このマフラーで、私の存在がバレたって。だから別れてくれって」
 もう泣き枯らしたのか、涙は出ないが、それでも顔を歪めている。俺はこういう肝心な時に何も言えない。慰めたらいいのか、励ましたらいいのか、分からない。
 それまで黙って動かなかった塁が、机から脚を降ろし、口を開いた。
「俺、知ってたよ。森って人が既婚者だって」
 皆が一斉に塁を見た。塁は両ひざに両肘を乗せて手を組み座っている。
「いつだったか、拓美ちゃんが告白する前に、左手の薬指に指輪してるの、見た事あったんだ」
 言い終えるかどうかの所で智樹が立ち上がり、塁の所へ寄って行った。まずい、と思った時にはもう遅かった。智樹が塁の胸倉を掴んでいる。その横で君枝ちゃんが口を押えている。
「何ですぐに言わなかったんだよ、塁!」
 今にも殴りかかりそうだったから、俺は智樹の後ろに回り込み、二人を引き剥がした。智樹は肩で息をしている。塁は冷ややかな態度だった。
「悪いのは森とかいう奴でしょ。結婚してた事、隠してたんだから。それに、下調べが足りない。あの年齢なんだから、結婚してるかどうかぐらい聞かないと」
 そう言うと塁は机に置いてあったフランス語の教科書を乱暴に鞄に仕舞い「帰る」と一言言って部室を出て行った。
「何なんだよ」
 吐き捨てるように智樹は言い、ドスンとパイプ椅子に座った。
「何か、ごめん。私が悪いのに、ごめん」
 拓美ちゃんは俯いてマフラーを握っている。俺に出来る事を考えたが、ろくな事が浮かばなかったから、ろくでもない事をした。
 彼女の手からダークグリーンのマフラーを奪い取り、俺の首にふんわり巻いた。返却する事を想定して、ふんわりと。
「俺がしても似合うんじゃない?これ。ねぇ、拓美ちゃん」
 暫しの沈黙が流れ、俺は「しまった」と思った。
 が、予想に反して、拓美ちゃんは歪めていた顔を笑顔に変えて「似合うね、確かに似合う」と言い、立ち上がって俺の首に巻いたマフラーを少し手直ししてくれた。彼女の指が頬に触れた瞬間に電流が流れたように震えてしまった。
「お下がりで悪いけど、男物のマフラーなんて持ってても仕方がないし、もし嫌じゃなければ、使ってくれない?」
 俺だよな?確かに俺に投げられてる言葉だよな?俺は二度三度確認し「喜んで!」といつもの三倍デカい声で叫んだ。
 智樹は苦笑していたが、俺はお下がりだってなんだって、拓美ちゃんからのプレゼントなら何だって嬉しいんだ。俺は諦めが悪いんだ。拓美ちゃんに彼氏がいなくなった今、俺にまたチャンスが巡って来たって訳だ。
 俺は諦めが悪いんだ。まだまだ拓美ちゃんを諦めちゃいないんだ。

 部室の窓から「帰る」と出て行った塁のからし色のダウンジャケットが見えた。こちらを一切振り向かず、正門に向かって行った。寒々しく丸裸になった銀杏の木の下で、あいつの身体は小さく小さく見えた。


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