『望郷ー魂の帰る場所ー序章……』-4
さらに夜も更け、寝静まった牢屋に聞き覚えのある声が響いた。
「弥太郎?……弥太郎はおるのか?」
もはや二度と聞くことも無いと思っていた声に、初めて弥太郎に動揺が走った。名を呼びながら声が近付いて来る。
「姫様……何故、この様なところへ参られたのですか?お戻り下さいませ。」
「弥太郎、そこにおるのか?」
声は弥太郎の前で止まった。薄明かりの中に千の姿が浮かびあがる。
「お戻り下さいませ…人目に付く前に早く。」
「門番がいたら止めようと思っておったが、誰もおらぬのじゃ……不思議だのう……」
千の言葉を聞いて弥太郎は思った。これは領主の最後の計らいなのであると……父としての……
「どうしたのじゃ?弥太郎……」
黙り込む弥太郎を見て、不審そうに千は話しかけた。
「なんでもありませぬ。姫様も、お元気そうで何よりです。」
弥太郎の言葉を受けて、千は寂しそうに微笑む。
「また……姫様と言う呼び方に戻ってしまうのだな……」
「ここは城内です故、もしも……」
千は成程という顔をした後、さらに格子に近付いた。
「呼び方は仕方あるまいな。ならば、もっと近くに来てくれ……。せめて、そなたの顔に触れたい。」
弥太郎が立ち上がり格子に歩み寄ると、白い腕が伸びて頬に触れた。声を聞くことも触れることも諦めていた。しかし今、最後の望みは叶えられた……もう思い残すことなど無い……。震える声を必死に抑え、弥太郎は言った。
「こんなに手が冷えて……ここは寒い、部屋に戻られませ。」
「そうだな……わらわは明日、出掛けねばならぬが戻り次第、父上と話し合うつもりじゃ。弥太郎、そなたの身は何とかして見せるから案ずるな。」
千の言葉を聞いて、弥太郎は涙が出そうになるのを必死で堪えた。暗がりが泣き顔を隠してくれることに感謝したい気持ちだった。
悟られてはならない……
たとえ後で真実を知ることになるとしても、今だけは……
「風邪を引かれますぞ、戻られませ。」
その言葉を口にするのが、弥太郎には精一杯であった。名残り惜し気に何度も振り返りながら、やがて千の姿は闇に消える。弥太郎は再び正座をすると、両手をついて頭を下げた。
「お館様、感謝致します。そして、千姫様………最後の別れを告げずに逝くことをお許し下さい……」
夜が明けるまで弥太郎は、そのままの姿勢を崩さなかった。
重苦しい一夜が明けて、牢屋から出た弥太郎は身を清めると白装束に着替える。取り乱すことも暴れることも無く、後ろ手に縛られたまま、牢の外に出るときでさえも、不思議なことに穏やかな表情をしていた。
庭に出ると、弥太郎はゴザの上に正座する。目の前に大きな壺があり、切られた首はここに落ちるのだろうかと、何故か冷静に見つめていた。
「最後に…今一度尋ねる。思い残す事は無いか?」
静かな声で領主は尋ねた。弥太郎はうっすらと笑みを浮かべ、真っ直ぐに領主を見つめる。
「お計らい、感謝の念に絶えません。思い残すことなどありませぬ。」
領主は頷き目を閉じた。
「別れぞ……弥太郎。」
弥太郎も静かに目を閉じる。刃が振り上げられて止まり、振り降ろそうとした刹那、身を切る様な絶叫が刃先を止めた。
「嫌あああぁぁあっー!!」
声の主は言うまでも無く千である。髪を振り乱し、息を切らせてあらん限りに絶叫していた。