『望郷ー魂の帰る場所ー序章……』-3
「信じてもらえぬか?足りぬと言うのであれば、この身を捧げても、わらわは…わらわは……」
仮にも姫である立場の者が唇を与える……それが何を意味するのか幼い千にとって本当の意味などわかってはいないかもしれない。
しかし、それが千にとって精一杯の行為だった。漆黒の瞳が哀願する様に弥太郎を見つめている。そこには姫という衣を脱ぎ去り、一人の女としての千がいた。弥太郎の拳が硬く、硬く握られていく。
「もう、何もおっしゃいまするな……お覚悟、しかと見届けさせて頂きました。」
「で、では!……」
弥太郎は一度立ち上がり、姿勢を正すと片膝を付いて胸に手を当てた。
「わたくしも覚悟を決めました。この弥太郎……どこまでも従わせて頂きます。」
「従うのではない。供に行くのであろう?弥太郎……様」
歩み寄る千を、しっかりと抱き締めて弥太郎は頷いた。
「全て、上手くいったあかつきに改めてお呼び致しましょう。千……殿」
ひしと抱き合う二人を、木陰から息を殺して見つめる者がいる……。しかし、そのことに千も弥太郎もまだ気付いてはいなかった。
仄暗い山中を千と弥太郎は走っていた。手を握り合い、互いをかばいながら。
「なぜ、こんなに早く追っ手が?……」
「わかりませぬ……きっと庭に監視がいたのかもしれません。」
逃げ惑う二人であったが、包囲の輪はじわじわと縮まり、とうとう捕えられてしまった。数日後、牢屋に閉じ込められている弥太郎のところへ領主がやってきた。人払いして近付くと口を開く。
「大変な事をしでかしてくれたな……」
「返す言葉もございません。」
領主の言葉に、そう弥太郎は返した。
「よもや、二人で城抜けするなどとは……そちは、もっと頭の良い者と思っていたのだが……」
領主は落胆の溜息を付き、言葉を続ける。
「件(くだん)の事、隣国に伝わってしまった。未来の妻をかどわかした不届き者の首を献上しろと言って来たのだ……。国の為、わしはそなたを……」
領主はそこで言葉に詰まった。弥太郎は平静を崩さず、穏やかな口調で領主の言葉の先を言った。
「覚悟は出来ております。国の為、お切り下さいませ。」
捕まったときから予想していたのか、弥太郎は動揺すら見せない。領主は背を向け咳払いをした。
「明日、処刑を行う…。最後に言い残す事はあるか?」
領主の問掛けに少し間を開けた後、弥太郎は静かな声で言った。
「ひとつだけ………姫様に、弥太郎は国を追放になったとお伝え願えまするか?事実を知らせるのは、あまりにも……」
「心得た…伝えよう……」
領主はそのまま歩き出し、数歩進んで立ち止まった。
「これは独り言じゃ……。あのまま包囲の輪を抜け、逃げ延びて欲しいと心の奥底で願っていた。父として、娘の幸せを願えばこそ……許せ、弥太郎。」
背を向けたまま、そう言い残すと領主は姿を消した。誰もいなくなった牢屋で床に額を擦りつけ弥太郎は呟いた。
「勿体ない……お言葉でございます。」