『望郷ー魂の帰る場所ー序章……』-2
「聞いたのであろう?わらわのこと……」
「は……この度は…婚礼の…儀が……決まった…とのこと……ま、まことに……」
「めでたい……そなたもそう思っておるのか?」
(思ってなどおりませぬ!)
弥太郎は心の中でそう叫んでいた。しかし、小姓である自分に何が言えよう……きつく唇を噛み締め弥太郎は再び俯いた。
「答えてはくれぬか……おぬしの立場を考えれば、そうであろうな……。のう、弥太郎。民は好いた者同士で半生を過ごすと言うのに、わらわには何故に許されぬのであろう……」
「……姫様……」
「望んで姫として産まれた訳では無いのにな……わらわの望みは、そなたと共に………」
「なりませぬ!その先を申されては、なりませぬ!!」
千の言葉を遮る様に弥太郎は叫んだ。
「何故じゃ?弥太郎」
飛びずさる様に後ろに下がると弥太郎は土下座をする。
「わたくしは一小姓の身にございます……。わたくし如きに、その様なことを申されては……どうかお許し下さい。」
「後生じゃ弥太郎……最後まで言わせてくれ。わらわが一番好いておるのは、そなたじゃ……。この気持ちは変わらぬし、変えられぬよ……」
「勿体ない……お言葉でございます。」
かしこまる弥太郎の側から立ち上がると千は背を向けた。
「わらわとて、ただのおなごと何ら変わらぬ。好いた男に、畏(かしこ)まられては堪(たま)らぬな……我が身を口惜しく思うぞ……」
「……姫…様……」
「弥太郎……わらわを連れて逃げてくれと頼んだら、そなたはどうする?」
千の突然の一言に弥太郎の顔は驚愕の表情になる。
「な、何を言われます!その様な事、お館様がお許しになる筈が……」
「わかっておる!わかっておるのだ!無理だと言うことぐらい………」
弥太郎に向けた背中が、わなわなと震えていた。大きく深呼吸をして千は、しばし無言になる。静寂を取り戻した庭に、虫の音だけが耳に痛いくらいに響いていた。
「夢を見た……」
元の声音(こわね)に戻り、千は呟いた。
「暖かな夢じゃった。わらわと弥太郎がいて、まだ見ぬ子らに囲まれて……。皆、幸せな顔をしておった……」
「………」
振り返って走り寄り、物言わぬ弥太郎の胸へ千は飛込んだ。慌てて身を離そうとするその背中に手を回し、しっかりと抱き付き千は嫌々をする様に首を振る。
「お離れ下さい!この様なところが、人目に付いては……」
「構わぬ!今一時で良いから、胸を貸してくれ……後生じゃ!……。後生じゃ、弥太郎……」
胸の中で千は激しく嗚咽(おえつ)する。一国の命運が、この小さな肩に乗っている。それは計り知れない重責なのであろう……自分に出来ることなど、これぐらいしかないのだと、万感の想いを込めて弥太郎は細肩を抱き締めた。
「そなたと離れるくらいなら……まして、あんな男の慰み物になるくらいなら……生きてなどいたくない……」
「お戯(たわむ)れを……姫様……」
「戯言(たわごと)と……戯言と申すのか!?わらわは名誉も富もいらぬ!ただそなたが欲しいだけなのじゃ!何故わかってくれぬ!何故信じてくれぬのじゃ!」
泣き腫らした目で見上げ、小さな手が弥太郎の胸板を何度も何度も叩いた。
「お館様を裏切れば、わたしは名を……世を捨てねばなりませぬ。その様な男と供に歩みたいと申されるのか……姫様。」
弥太郎の胸板に伏せていた千には、その時弥太郎がどんな表情をしていたのか知るよしもない。
「構わぬと言うておろうが……」
「或いは、それは死ぬことより辛いやも知れませぬぞ?そのお覚悟は、おありですか?姫様。」
主(あるじ)に向かって弓を引く行為……その先に待つものなど弥太郎には分かり切っていた。だが敢えて問わずにはいられなかった……。その言葉の意味、それは文字通り命懸けなのだと……
「そなたさえ側にいてくれるなら……そなたと供に歩めるのなら……これが、わらわに出来る真実の証(あかし)じゃ……」
言い終えて、千は弥太郎の顔を引き寄せると唇を重ねる。
……時が止まった……
実際は僅かな時間であったが、弥太郎にとっては無限とも思える時間だった。