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つい今しがたまで、無い事に気付かなかった事に、急に気が付いたりする物だ。
黒いメッシュのペンケースから、消しゴムが消えている事に気付いた。
「何、どうしたの?」
ペンケースを丸ごとひっくり返して中身を確認したり、床に視線を落としたり、無いと判っている癖に制服のポケットを探ってみたり、落ち着き無く動く様を見て、博美がそう言ったので、「消しゴムがなくなった」と端的に述べた。
博美も一緒になって教室の床に這う様にして探してくれたが、見つからない。
「さっきの、音楽室じゃないの?」
あ、そうか。今日最後の授業は音楽だった。
「部活の前にちょっと行ってみる」
「大事な消しゴムなの?」
大事な消しゴム、と言う響きが何とも可笑しかった。消しゴム如きで。
「いやぁ、まだ買って数回しか使ってないから、勿体無いなって思ってさ」
ペンケースの中身を元に戻し、身支度を整えていると、博美が妙な事を言い出した。
「最近流行ってるらしいよ。何つーか、中学生じゃあるまいしぃ」
何が流行っているのか勿体ぶったその口調に「何がだよ」と被せた。
「消しゴムに、自分の名前と好きな人の名前を赤字で書くと、結ばれるってやつ」
「はぁ......」
溜息にも似た声を漏らした。中学生じゃあるまいし。博美の言う通りだ。
「それって消しゴムの底に書くの?」
博美は一瞬面食らった様な顔を見せ、「バカか」と言った。
「そんな事したら周りにバレるでしょうが。紙に隠れてる部分だよ。側面」
そうだよねーと軽く受け答えをし、鞄と練習着が入ったバッグを持った。
「音楽室寄ってみるから、先に行ってて。アップに間に合う様に行くから」
そう博美に伝え、音楽室に向かった。
音の絶えた音楽室の扉をガラリと開け、靴を脱ぐ。絨毯敷の音楽室の電気をつけると、パッとグランドピアノが光を受けて輝いた。
おっと、消しゴム消しゴム。
自分の席の周りを重点的に調べたが見つからず、合唱のパート練習に使った音楽準備室に足を踏み入れた。
「あ、あった」
誰にいう訳でも無く呟き、酷く一般的に流通している個性の無い消しゴムを拾い上げた。まだ使って間も無い。間違い無く私の消しゴム。
思ったより早く発見出来たなあと思い、音楽室の電気を消し、歩きながらペンケースに仕舞った。
部室棟へ行くために、再度教室の前を通った。
見知った顔が、廊下をウロウロしていた。
「賢太郎、何してんの?」
いつもなら部活に向かい、私達と半分に分けたコートでバレーボールシューズの紐でも結んでる頃だろう。
「いや、消しゴムを無くしちまったみたいでさ」
「ここで?」
廊下のリノリウムの床を指差す。
「いや、分かんねぇけど、さっき稲村達が、廊下に落ちてる消しゴムを蹴って遊んでたって聞いたからさ」
傘立ての隙間や、消化器の裏、隅々まで探している。
博美の言っていた事が脳裏を掠めた。
「ねえ、大事な消しゴムなの?」
賢太郎は少しむくれた様な顔で頬を赤らめて「そんなんじゃねぇし」と言うが、狼狽は隠しきれていなかった。
まさかね、賢太郎があのおまじないを信じているなんて......。
「あ、あった!」
傘立ての隙間から賢太郎が拾い上げたのは、私が持つ消しゴムと同じ、ごく一般的なメーカーの消しゴムだった。
「良かったじゃん。じゃ、私は先に部活に行きますので」
「何だよ、一緒に部室棟に行くぐらいいいじゃんか」
ズタ袋の様なケースに消ゴムを仕舞うと、鞄を手に歩き出した。私はその横を歩く。
部活が同じでも、普段言葉を交わす機会は少ない。教室でもそう頻繁に話をする訳でも無い。
こうして横並びに歩くのは少し、恥ずかしかった。
賢太郎が、空高くジャンプして、白球を地面に叩き込む一瞬の、歯を食いしばる顔が好きだ。顧問の話を聞く時の、挑発的な目が好きだ。頭から水を被り、それをさっと後ろへ払う仕草が好きだ。
要は、賢太郎に惚れているのだ、私は。
隣を歩いているのに無言のままで居心地が悪く、「は、春の大会は、くじ運はどうだったの?」と、どうでもイイ話を振ってしまった。
「まだマネージャーから知らされて無いな。もう、決まったのかな。女バレは?」
話を振っておいてなんだが、全く知らなかった。
「知らん」
「何だよそれ」
部室棟に到着し「それじゃ」と各々の部室に入って行った。