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-1

 窓からやってきた,一枚の花弁。僕は肩に乗っているそいつに,指を触れた。桜だ。桜の花びらだ。5月中旬だというのに,まだ,咲いていたのか。窓を見ながら,桜の木を探しながら,古典の教科書を閉じた。直ぐに見つかった。意外にも,その木は,直ぐ近くにあった。至極,近くに。窓に寄り添うように,しかし,窓よりも少し,低い位置に。
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの あふこともがな。和泉式部の有名なうたですね。愛する者に対する,強い執着心が窺えます。皆さん,このうたをどう思われますか。私は……,」
 教師の声を,意識のはしに。僕は,なんとなく,席を立つ。まるで,糸の切れた傀儡のように。古典の授業中なのに,構わず,席を立つ。教師と目があった。だが,注意してこない。席に戻れと,言ってこない。それどころか彼は,授業中席を立った僕に,微笑みかけてきたのだ。若い教師だ。名を,打越という。端正な顔立ちで,女子に人気がある。せんな彼の整った微笑みに,小首を傾げる僕。そうしながら,何故か,頬が紅潮していた。なんとなく,羞恥心を感じる。赤い頬にもまた,羞恥心を感じる。異様な熱を顔に宿し,僕は,そそくさと教室を出た。


 階段を降りる。静かで,ほの暗い階段を。錆臭い手すりに体が触れぬよう,注意しながら。衣服に,制服に,錆が付着しないよう,注意しながら。注意せずとも,段の中央を歩けばよいのだが。その時の僕は,どういう訳か足下がおぼつかない状態にあったようで。なんとか,体勢を保つことは出来たのだが。やはり何処か不安で,何かにしがみ付いていたい気分だったのだ。
 手すりに触れることなく,なんとか最後の踊り場に到着する。目的地は裏庭。桜舞う,桜咲く,裏庭だが。一階の廊下に行くまでもなく。玄関を通るまでもなく。この踊り場から,裏庭に出ることが出来る。今,目の前にあるこの窓こそが,裏庭に続く。サッシ窓だ。だが,現在はある事情によって,使用禁止になっている。その事情とは……。ちょうど去年の今日,ここで一人の生徒が亡くなった。女子生徒だ。今の僕と同じように,桜を見に裏庭へ出ようとしていたそうだ。いつもぼんやりしていて,つかみ所のない生徒だった。そんな性格も助かってなのか,事故は突然起こる。何かの拍子に窓が降下し,首を挟めてしまった。ちょうど,断頭台のように。何が起こったのか,未だ定かではない。定かでないから,余計に不気味なのだ。生徒たちは,この窓に近づこうとさえしなくなってしまった。だが,なんという風もなく。僕は膝を折り,下部の窓片(ガラス)を持ち上げていた。生ぬるい風が髪を梳く。心地よいとさえ,思った。つまり,気味が悪いだとか,恐いだとかいう感情は,全くなかったのである。
 難なくそこを通り抜けた僕。その窓から地面までは,1メートル程離れているので。通り抜けるというよりは,飛び降りた,というべきかもしれないが。とにもかくにも。裏庭に着いた僕。件の桜の木のある方へ,歩く。否,歩きだした。その時,人影一つが,僕の行く手を阻んだのだ。僕は足を止めた。
「火,持ってたら貸してくれないかな,」
 そいつが言った。女だ。黒尽くめの女だ。なんで黒尽くめなのか。単に黒が好きなのか。煙草をくわえ,こちらに手を差し出している。格好付けているのか。暫くの間,そいつとは初対面だと思って,怪訝な表情をしていたが,すぐに,緊張は解かれた。よくよく見れば,知っている顔だった。どうして直ぐ,彼女だと分からなかったのか。どうして気付けなかったのか。よく分からない。が,喉につかえたもの,つまり,そのよく分からないものの正体を,深く考えようともしなかった。必要がないと思われた。その時は。
「なんだ,浅海じゃないか。」
 僕はため息に乗せ,そう呟いていた。浅海は歯で煙草を挟んだまま,鳶色の長い髪をかきあげる。そして,にっこりと微笑む。
「久しぶり,」
 挟んでいた煙草を,勢いよく吹き出した息で,遠くへ飛ばした後。そう言った浅海。女の煙草は怖いよ,と,僕が前に言った言葉を思い出したのか。それとも,煙草嫌いな僕が火を持っている訳がないと悟って,吐き捨てたのか。そうであるならば,非常に,無意味だが。
「そうでもないじゃないか。金曜に会ったばかりだろう。」
「そうだっけ。」
 僕の反論に,舌を出して首を曲げる浅海。彼女のおどけた態度につられて,僕は吹き出す。浅海の笑い声を予期していた僕だが。彼女の動きは,思いの外静止する。その眼差しは,僕の肩にある。
「立花,肩に何か付いてるよ,」
 立花は僕の苗字だ。自分の肩を指さされ,自然と,そこに手を触れた僕。いつの間に。桜の花びらだ。桜の花びらが乗っている。そういえば,桜の木を見に来たんだっけ。浅海のペースに飲まれて,すっかり忘れていた。2本指で摘んだその1枚を,ぼんやりと見据えながら,思い出す。すると,浅海が変なことを言い出した。不適な笑みは,彼女のその視点は,僕の胸襟を貫いている。そう,貫いている。
「そういえば,桜の木の下に,死体が埋まっているって話,聞いたことある,」


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