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 僕は頷いた。確かに,昔,そういう類の話を,誰かに聞いた気がする。桜の木の根元に死体が埋まっているから,桜の花びらは淡い紅,つまり桃色なのだという話。幻想的な印象を与える桜だからこそ生まれた,単なる迷信だと思うのだが。
「ねえ立花,今暇でしょう,」
 まあ,暇といえば暇なのかもしれないけれど。僕は曖昧に頷く。すると,浅海の表情が一気に幼くなる。瞳の輝きが増すというのだろうか。髪を踊らせて,小さく跳ねる。何度も,何度も。そうなんだ,そうなんだと,歌うように言う。心なしか,声色を高くして。何回か跳ねると,浅海は更に,妙なことを提案する。僕の手をとり,強引に引っ張りながら。
「ねえ,試しに掘ってみない,死体,」
「は,」
 彼女の言葉に,僕は唖然とする。まあ,暇といえば暇なのかもしれないけれど。目を泳がせ頭を掻く。その時ようやく気付く。外に出てから,体が平常に戻っていると。つまり,ふらつかずに,きちんと歩けると。そして,そう気付いた途端。僕の心が軽くなる。否,急に軽くなった訳ではなくて。本当は先刻から,徐々に,明朗になっていた。忽然の自覚が引き起こした,一瞬の錯覚に過ぎない,ということ。それだけ,体が重かったんだ。
「ほら,私も手伝うから,」
 浅海が僕の手を引いて言う。誤解しないで欲しい。「浅海が」言ったのだ。意味不明だ。手伝うというならば,僕の方なのに。
 ところで,僕は,桜の木の下に死体が埋まっているなどと,思ったことはない。第一,有り得ない。目を開きながらの寝言,とは,まさにこのこと。前に述べたように,単なる迷信だ。例えば,向日葵はどうして黄色いのか。黄色い血の死体が埋まっているのか。有り得ない。花の色とは,科学的に証明するものであると僕は思う。即ち,桜の木の下から死体を掘り起こすという,浅海の提案は,無意味。無意味なのに,なぜ,反論,意見しないのか。なぜ,いつの間にやら,スコップを持っているのか。浅海に手渡され,手放さずにいるのか。多分,彼女の勢いに,流されているのだろうと思う。そんな曖昧な理由で,こんな面倒な提案に乗るのか。疑問だ。実に,疑問だ。よく分からない。ただ,さっきから喉に詰まっている正体不明の何かが,僕を操っているような気がした。なんとなく,そう感じていた。
「ここだけ,どうして散らずに残っているんだろうね。ほかはみんな,散ってしまったのに。取り残された感じ。」
 そう呟いた浅海。どこからか持ってきた自分のスコップを地に刺し,顎を乗せる。ひとつ,息を吹き出した後,ゆっくりと,首を擡げた。やんわりと,飛び込んできた青空と桜のコントラスト。その効果も助かり。桜の花々は,淡色ゆえに,周りが霞んでいるように見えるのだ。無論,錯覚だ。そう,錯覚なのだ。錯覚であることを重々承知している筈なのに。その錯覚を拭えない自分に少し戸惑った。それ程までに,桜とは,神秘的なのだ,と,突きつけられた気がして。
「さてと,掘りますかね。」
 いつの間に,服の袖を捲っていた浅海。スコップで,土を掘り始める。僕も,彼女に続いて掘り起こす。暫く,2人は無言で土を掘っていた。端から見れば,実に滑稽だろう,この光景。とはいえ,周囲を気にする必要もない。今は授業中なのだから。
 土を掘りながら。僕は,あることを思い出していた。記憶,ではない。心につかえている,ある映像。これは,果たして夢だったのだろうか。それとも,実際にあったことなのだろうか。何故だろう。どうしても,今は考えたくなくて。考えるのが億劫で。ただ,映像のみ,心を占める。
 踊り場のサッシ窓で亡くなった女子生徒と,指に煙草の吸いかけを持った古典の打越がキスしている。そんな映像。場所は,僕のクラスだ。窓から見える景色で分かった。僕の目は,天井にある。天井から見下ろしている感じ。二人の接吻を,見下ろしている感じ。これがもしも夢なら,自分は変態だ。思わず顔を赤らめる。二人の口づけが,あまりに,激しいものだから。そして実際,土を掘りながら,頬に強い熱を感じている。羞恥心で,顔を赤らめている。しかし,気にする必要もなく。浅海は浅海で,一心不乱に土を掘っているから。本当に,懸命に。彼女のこんな顔を,見たことがあっただろうか。そう思うくらいに。どうしてこんなことに,こんな下らない提案に,真剣になるのか。彼女を理解することは,無理難題。
 僕は浅海を一瞥,確認した後,再び,例の映像のみ心を集中させる。女子生徒と打越のキスは,更に激しさを増していた。見た感じ。どちらかと言えば,打越が強引に自分を押しつけている感じ。だが,女子生徒の方だって満更でもなく。時を追うごとに,警戒心が解かれたようで。いつの間にか,彼女の方から舌を絡め,求めていた。それから,二人は床に転がった。そこで,教室のドアが開く。現れたのは,なんと,浅海だ。


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