幻-3
浅海は,瞬時,顔を曇らせたのだが,すぐに笑顔を作った。打越と転がっていた女子生徒は,半身起き上がる。慌てて乱れた身なりを整え始めた。そして,彼女が立ち上がって間もなく。浅海は走り出した。笑顔のまま,走り出した。頬に,何かが光っていた。強い彼女の,貴重な涙。僕には,それが涙であると,直ぐには分からなかった。というのも,彼女は普段,あまりにも強すぎるので。いつも楽しそうに笑っているので。走り出した時も,綺麗に笑っていたので。
浅海を追いかけた,僕の意識と,女子生徒。薄闇の中,2人の弾んだ呼吸,足音が響いた。待って浅海,ごめん。女子生徒の声が響く度。浅海の涙の粒が大きくなったことを,僕は知っている。階段を降りた浅海は,裏庭に続くサッシ窓を開け,滑り出る。そして,追いかけてくる女子生徒に居場所を隠すために。慌てて窓を閉めようと跳び上がった瞬間に。例の女子生徒の頭が現れた。不意打ちだった。浅海の体重が掛かったサッシ窓は,そのまま,勢いよく降下して――。
「こら,ぼんやりしてないで,働く働く。」
浅海の声に我に返った僕。既に2メートル近くは掘っただろうか。奥の方は,黒。茶色ではなく,黒。さぞかし深く掘ったと見える。大半は,浅海が掘り起こした。ぼんやりしていた僕は,はじめ以外,殆ど加勢していない,ということ。実に滑稽だ。
「立花はさあ,どうしていつも,そう,ぼんやりしてるンだよ。その,『僕』って言うのも,止めた方がいい。よけいにぼんやりしてると思われるから。」
軽口を言いながら,額の汗を左腕で拭う浅海。笑って誤魔化そうと構える。が,そうしようとして,意識を持っていかれる。彼女の指から,閃光が放たれたのだ。その閃光に,視点が引き寄せられた。左手薬指。僕は問う。
「なにそれ,指輪,」
浅海にあるまじきこと。女らしい(彼女は女だが……)照れ笑いをしながら。僕に向かって,左手を翳す。
「そう,婚約指輪。実は,打越からの貢ぎ物。去年の秋頃に,買って貰ったんだ。」
なんだそれ。どういうわけか,複雑な気分。さっきから喉につかえている何かが,震撼した気がする。僕は,すげなく,相槌を打つ。浅海が心ここに在らずの状態。隙を狙って,目を凝らす。確認すれば。彼女の首筋に,赤い痣を見つけた。打越との情事の際につけたものではないかと,何故か思った。何故か,打越がそこに刻印することを知っていた。腹立たしさと,悲しみが,こみ上げてくる。自分の心を揺り動かしているモノの正体を掴めぬままに。
「結婚,するの? だって浅海,学生でしょう。まだ18歳でしょう。それに,教師と生徒って,どうかな。」
僕は言う。ごろごろと,喉が鳴る。一体,何を言いたいのか。本当は,何を言いたいのか。自分でも,よく分からない。浅海の満面の笑みに,ただただ,恐怖に似た何かを思っていた。負け。誰かが,そう言った気がした。
「さあ,そんなことはどうでもいいから。発掘作業を続けますよ,立花さん。」
どうでもよくはなかった。僕にとっては,至極重要なことだった。再び動き始めた浅海のスコップが,すぐに止まったそのとき。僕は,事態の半ばを知りつつあった。裏切り。それは時に,人を幸せにする。心の深みに蓋をしてしまえば。そしてそれは絶対的に,ここから去るものの心を,代価にしなくてはならない。
「見つけたよ,立花の死体。」
浅海が,笑ってそう言った。汚れた笑顔だった。そして,彼女の笑顔を汚したのは,ほかでもない,僕だった。
人とは,なんて身勝手な生き物だろう。僕はこの時,おろかにも,怒りにかられていたのだ。憎まれるべき相手は,僕の方なのに。持っていたスコップを振り上げ,浅海の頭を殴ってやろうとした。しかし,呆気なくかわされる。逆に,その反動を利用され,浅海の手により,掘り起こした穴の中につき落とされていた。ドンッと。バランスを失い,土の穴の中,座り込んでいる僕の目の前。腐敗した僕がいた。首筋に,浅海と同じような痣を見つけて,確信した。首と胴が切り離された僕が居た。誰が埋めたのか。浅海か,打越か。そこを見届けるまでに,僕の意識は持たなかった。そうだ。僕の意識は,途絶えたんだ。全て,思い出した。僕はあの日,浅海に殺されたのだ。あの映像は,夢でも,妄想でもなく。真実以外の,なにものでもなかったんだ。