One lives-3
目の前には彼に似た僕がいる。
それは日の光を浴びて、まるで自分が正しいと主張するかのように立ち尽くしている。
『何度試したって無駄さ。何も無いお前は、だから全てが憎い。そして何より、そんな自分自身が憎いんだ』
僕は耳を塞ぐように目を閉じた。
彼は消えた。
そこには何も無い。
だから僕は生きていける。
やっぱり僕は闇の中にしか居場所が無いのだろうか。
「せんぱい?」
「んあ?」
横を見ると交代の警備員が来ていた。
「顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」
「いや、僕はもう帰らせてもらうよ」
「はい、遅れてすいませんでした。お疲れ様です」
意識が朦朧としながらも、家に向かう。
ゆらゆらゆれる世界。
そうだ、誰にだって希望がある。
参考書を見ながらバスを待つ、あの女子高生だって。
くたびれたスーツで高層ビルの入り口に向かう、あの男性だって。
羽根を失い路上に落ちた、あの鳥だって。
きっと誰もが夢を見る。
辿り着けなくても、それが明日への糧となるならば。
決して楽ではない今を、乗り切ることが出来るのだろう。
それならば僕は。
かつて憎んでいた頭上の光を仰ぐ。
それならば僕は、いったい何を望むというのか。
何も持たない僕は、何を持てばいいのだろうか。
分からない。分からないから、眠りにつこう。『お前は影だ』と彼は言った。それは、どうしようもなく正しい。だから眠りについて、夜に生きよう。誰も動かない世界に潜もう。照らすものが無ければ、影だって生きていける。
他人がいなければ、僕だって生きていける。
ずっと、ずっと闇の中で息を潜めればいい。
今までも、これからも。黒と同化するんだ。
「レイ、こっちよ」
彼女はカウンターに座っていた。
「珍しいね。こんな洒落た店に来るなんて」
「まぁ、ね」
何か含みを持たせた答え方をしたので、僕は気になった。
「どうしたの、元気が無いんじゃない?」
いつもはガヤガヤと騒がしい飲み屋の中で、全く違和感無くアルコールを胃に運んでいる彼女なのに、今日はスーツを脱ぎもせずにワイングラスを回している。
「ん、ちょっとね」
店内には緩やかに洋楽が流れている。歌手の名前を聞いたって、多分僕には分からないだろう。
「仕事でね、ミスしちゃったんだ」
静かに呟いた。
「そう」
それ以上、僕は何も言わなかった。何を言うべきかも分からなかったし、何も言うべきではないような気もした。
「看護婦って職業はね、ミスしちゃいけないものなの。私たち一つ一つの行動に重みがあるのよ」
どれほど重大なミスをしたのか、僕には聞けない。
彼女の頬を伝う涙が、それを許さない。
「最初はね、人を救いたくて、助けたくて、この職に就いたの。でもね、いざやってみると、そんな実感は無いのよね。最近は仕事に対してモチベーションも上がらないし」
もう終わりなのかなぁ。
溜め息混じりに、そんな言葉を吐き出した。
僕は、頼んだウイスキーを口に含んだ。
「それでね、私、実家に帰ろうかと思うの」
「そう、それは寂しくなるね」
本当は彼女は止めて欲しいのかもしれない。けれど僕にそんな資格があるのだろうか。
何も無い僕を、彼女は受け入れてくれるのだろうか。
何も無い僕は、彼女を受け入れられるのだろうか。
『お前は、いったい誰に必要とされているんだ?』
その問いに、僕はまだ答えられない。
一瞬の静寂。
カラリ、と何処かのテーブルで溶けた氷が音を成した。
「ねぇ、明日、デートしよ。朝十時に、**遊園地の入り口で待ってるから」
そう言って彼女は店を後にした。
ひとり残された僕は、彼女と過ごした二年間を思った。どれほど彼女に迷惑をかけ、どれほど彼女に助けられたのだろう。人を救いたい、と彼女は言った。確かに僕は救われている。そのことに彼女は気付いていないのだろう。だから僕は行かなければならない。譬えどんなに頭が痛くても、吐き気が続いても。彼女との時間は、何よりも大切なのだから。
いつの間にか、音楽はクラシックに変わっていた。こっちの方が、このバーには合っているような気がした。