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もうひとつの心臓
【大人 恋愛小説】

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19 令二-2

「令二、今いいか?」
「は、あ、はい」
 考え事をしていた俺は焦ってコーヒーを倒しそうになった。「おい大丈夫か」と鈴木さんの心配そうな声にヘラヘラと「平気ッス」と答える。
 
「うーん、この感じ、いいんじゃない?」
「マジすか?」
「うん、これさぁ、細かくタイムライン追ってみたいな。お前今日、通し勤務できる?」
「ハイ、できますっ」
 通し勤務とは、要は夜通し働くという事だ。最近の俺は鳴かず飛ばずなデータしか得られていなかったので、通し勤務はかなりご無沙汰だが、今回は鈴木さんの推しもあって、ノリにノッてきた。
 今なら切腹も出来そうなテンション。いや、しないけど。
「じゃ、気を付けてやれよ。俺、終業後すぐ組合行って直帰だから」
「はい、わかりました」
 鈴木さんが丸椅子から立ち上がると志保ちゃんが見えた。また袖口を引っ張っている。
 じろじろ見るのも失礼かと思い、横目でちらりと見ていた(勿論仕事もしている)。傷跡は見えない。

「通しなんて、久々なんじゃない?」
 居室には俺と志保ちゃんの2人が残っていた。
「うん、最近不調だったからね、やっと良さそうなデータが出せそうだよ」
 志保ちゃんがパタンとノートPCを閉じた。
「夏の通し勤務は、ゴキブリが出るから困るよね。私、この前3匹を見ちゃって、殺すに殺せなくて、あれは地獄だった」
 白衣の腕を擦って、「あぁ気持ちわるっ」と身震いした。
「出鼻をくじかないでくれ、俺も虫、苦手なんだよぉ」
「まぁせいぜい頑張って、良いデータ出してください。そいじゃ今日は遅いのでさっさと帰ります。お疲れ」
 右手をひらひらと振って居室を出て行った。俺1人になった。両手を組んで頭の後ろに回す。

 志保ちゃんは彼に、宮川さんに惚れている。宮川さんだってそうだ。
 どうして惚れている同士で喧嘩、いや、喧嘩ぐらいはするだろう。でも暴力は――。
 傷跡の話をする時の志保ちゃんは、一瞬でも冷静さを欠いた、瞳の揺れを見せる。『陰』の様な物をチラつかせる。
 何か、人に言えない悩みがあるなら、俺が話を聞いてあげたい。俺が何とかしてあげたい。
 結果的に志保ちゃんと宮川さんの幸せに貢献する事になっても構わないと思う。志保ちゃんが楽しく幸せに生活できるのなら、俺は身を引く。
 惚れていて、惚れていて、本当は俺の物になって欲しいという我欲に満ちた感情がある。
 だけど惚れたヒトに幸せになって欲しいと願う。矛盾しているが、
 俺の中では相反する感情が渦を巻いて、混沌としている。俺に出来る事は――。

「じゃーん」
 居室の出入り口からいきなり志保ちゃんが顔を出した。
「うわっ、びびったっ」
 俺は椅子から転げ落ちそうになった。
 志保ちゃんの手には紙パックの野菜ジュースが握られている。白衣は脱いで、エスニック調のロングスカートに長袖のシャツを着ている。長袖が季節外れで目につく。
「通し勤務の差し入れに参りました」
 そう言って野菜ジュースを差し出す志保ちゃんの腕を反射的に掴んでしまった。
「なにっっ?」
 腕を引っ込めようとする志保ちゃんの腕を少し強引に引き寄せ、長袖の袖口を引き上げた。
 赤い、線を引いたような痕が幾重にもついている。痛々しい。
 それを見られて観念したのか、もう片方の腕はだらりと落ちた。その腕を掴み、同じように痕を見つけた。
「けん、か?」
 目の前に立つ志保ちゃんの顔を覗き込むようにして言った。そこには、あの翳りが見えた。
「喧嘩、みたいな物」
「随分変わった喧嘩するんだねぇ」
「鈴宮君に関係ある?」
 とても冷たい言い方だった。そこには俺が入り込む余地はないという事か。
 腕を握ったまま、傷口を見つめる。赤紫の、蚯蚓が張り付いた様な痕。

「あの、上手く言えねぇんだけど、その、俺は志保ちゃんの事――」
 あぁこういう時、どうしたら良いんだろう。俺は経験が少なすぎる。
「志保ちゃんの事、心配なんだ。喧嘩だろうが何だろうが、女の子に傷つけるなんてどうかしてると思うんだ。何か、話だけでも聞くから、何かあったら俺に話してよ。」
 暫く沈黙が流れた。外から虫が鳴く声が響いた。そして志保ちゃんは静かに言った。
「ありがとう。でも鈴宮君は1度に3人もの女の事付き合って、彼女たちを傷つけてると思わないの?見える傷と見えない傷、その違いは?どっちが問題?」
「――」
 返す言葉が見つからなかった。本当だ。今はうまくやっている3股も、勘付かれたら彼女達を傷つける事となる。いや、今この瞬間も、彼女たちを傷つけているんだ。
「そんな訳で、私帰るね。通し頑張れー」


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