鶴女房-3
「な、なんて美味しいんだ…。この味噌汁…!」
「そう言ってくださると、作り甲斐があったというものですわ」
白い湯気が立ち昇る茶碗の縁に口をつけた瞬間、与平はその味わい深さに衝撃を受けた。
自分が普段作っているのと同じ素材を使っているとは、与平には到底想像が及ばなかった。
「しかし、なにゆえ、ここまで美味しくなるのか…。やはり、隠し味かなにかあるのでしょうか?」
「ふふふ、大したことはしてはいませんよ。そうですね…、もしかして味噌をだし汁に入れて煮る時、温め過ぎていたりしていないですか?」
「ええ、いつも沸騰するぐらい煮ていますが…」
「そこです。味噌汁はあまり煮過ぎると、味噌の風味が飛んでしまうのです」
「そ、そうだったのか…」
「料理はほんの少しの手間で、味が大きく変化するのですよ」
その後、与平とおつるは、二人で湯気の立つ飯を箸でつつきながら料理の話題で花を咲かせた。
おつるの口から湯水のごとく溢れ出る豆知識は、あまり料理の素養が無かった与平にとっては目から鱗の数々であった。
彼女もまた、自分の話に興味を持ってくれているのが楽しいのか、与平の素朴な疑問の数々にひとつひとつ丁寧に、嬉々とした様子で答える。
猛吹雪による、凍てつくような寒さも忘れて、二人で夢中になって喋り続けているうち、気付いたら一刻(二時間)ほど経ってしまっていた。
「随分喋り過ぎていましたね」
「そうみたいですね。自分はなんだかもう眠くなってきました」
大口を開けると、中から不抜けたあくびが出てしまい、与平は慌てて手で塞いだ。
おつるは「あらあら」と微笑ましそうに与平を見た。
「そろそろお休みになられた方がよろしいですね」
「そのようです。では、これから布団を用意しますね」
「いえ、わたくしはまだ床に就きませんわ。今日中にやらなければならない作業があるので…」
「そうですか。分かりました」
与平はさっそく、普段使っているものと予備のものと、計二つの寝具一式を出しに赴くため、胡座を解いて席を立つ。
そして、寝具がしまってある倉庫部屋へ向かおうとした与平に、おつるは「あの…」と申し訳なさそうに引き止めた。
「厚かましいことを承知でお願い申し上げます。あの部屋を今晩貸しきっても構いませんか? あの中で作業がしたいのですが…」
おつるは倉庫部屋を指差しながら言った。
「別に構いませんよ。何なら作業しやすいように蝋燭に火を灯しましょう」
さしずめ友人絡みで、裁縫か何かでもするのだろう。そうなったらどうしても明かりが必要になるだろうと、与平は考えた。
「貴重な蝋燭を、わたくしの我侭の為に…。まことに申し訳ありません」
「気にしないで下さい。こちらとて、あれだけ美味しい夕飯をご馳走にさせてもらったんだ。勘定したらお釣りが出るくらいですよ」
「なら、お言葉に甘えて…」
与平が寝具をひと通り出し終えると、おつるはここに来る時に持っていた荷物を手に、蝋燭の朧げな灯りがぼんやりと照らす部屋の中へと入っていった。
そうして、与平は彼女に就寝の挨拶を交わし、立ち去ろうとしたその時、おつるは「そうそう」と、戸を閉める手前、与平にポツリと告げた。
「決して部屋を覗いてはいけません。決して、決して部屋を覗いてはいけません」
おつるは今まで一度も見せたこともないような神妙な顔つきで、念を押すように「覗いてはいけません」と幾度も繰り返し唱えた。
異様な雰囲気を醸し出す彼女の態度の変化に、与平は言いようのない気味の悪さを覚えざるを得なかった。
部屋の戸は、とうに閉められているというのに、与平はその場に立ち尽くしてしまっていた。