第8話 ホテル-1
翌日の昼時、海岸沿いの工業地帯にある工場の駐車場。
黒いミニバンの車中で、昼食を終えた慶が椅子を倒して眠りに付いていた。
工場内に食堂はあるのだが、あまり人に関わりたくない慶は、外食で済ませて車中で過ごすのが頻繁だった。
その為、工場近くの飲食店で食事をしたり、車内でコンビニ弁当を食べるのがほとんどだった。
その眠りかけたわずかな時、携帯の着信音が鳴った。
着信音はメールだった。
慶には、親しい友人など居ない為、主なメールはダイレクトメールがほとんどだった。
受信時間も夜が多く、この時間帯に送られた事に不信に思いながら携帯のサブ画面を覗くと、『ヤヨイ』と表示されていた。
もちろん睦美からのメールで、以前会う事になった時、携帯のアドレスも交換していたのだ。
まだ登録がハンドルネームになってるのは、慶が睦美に感じる距離感からだった。
駅での別れ際の態度を思い出すと、もう絶望的なのは間違いなかった。
それでも睦美に対する想いは立ち切れず、絵で表現する事で気を紛らわせていた。
逆にそれが、慶の想いを募らせて、絵で気持ちを伝える結果になった。
しかし、サイトでメールを送ったその日の内に返信が無い為、半ば諦めていた。
慶は、どこかわいせつな雰囲気の絵が、睦美の嫌悪感を煽ったように思ったのだ。
実際に描いてる最中も、睦美の事を思い浮かべては官能的な気分に誘われて、みなぎった物を抑えきれずに同じ過ちを繰り返していた。
そんな不純な気持ちで描いた絵を、睦美に見抜かれていたように感じていた。
今、その睦美からメールを貰った事に、只ならぬ緊張感が走った。
もしかすると、終わりを告げる内容とも考えたからだ。
慶は、恐る恐る携帯を開いて、メールを確認した。
しかし、内容の方は慶の不安と裏腹に、以前会った時のお礼と、睦美を描いた絵に対しての称賛だった。
さらに後半の方は、具体的には決めて無いが、睦美がモデルになってデッサンをして欲しいとの内容だった。
慶は、メールをすべて読み終えると安堵の表情を浮かべた。
すると、すぐにでも睦美の気持ちに答えようと、慌てたようにメールを打ち始めた。
内容の方は、睦美のメールに辺り障りなく答える感じで、デッサンに関しては前向きであると言う事だった。
デッサンの件は、早めの段階で具体的に決めていくと、せっかちと思われて印象を悪くすると思い、睦美の反応を伺う事にした。
慶はメールを打ち終え送信すると、背もたれに寝そべりながら思いに深けていた。
もう終わりかと思っていただけに、喜びもひとしおだった。
それはまるで、恋人同士が喧嘩して仲直りしたような感覚にも似ていた。
もう睦美に対して、母性を求めるよりも、恋焦がれる気持ちの方が勝っていた。
慶は、初めて経験する恋愛感情に、歳の差を考えるほどの隙は無かった。
とにかく、睦美の事が愛おしくて、今は先にある障害など顧みず、実り始めた想いに飛び込んでみたかったのだ。
そして、気持ちが高ぶり始めたその時、また携帯のメール着信音が鳴った。
慶が送信してからほんの数分の事だった。
もちろん睦美からで、内容の方は、翌週の平日にでも会って、自分をデッサンしてもらいたいとの事だった。
それを確認した慶に、息を飲むような緊張感が走った。
まさか、こんなにも早く具体的になるとは思ってもいなかったからだ。
慶はためらってしばらく考え込んだ。
なぜなら、睦美をデッサンするには、それなりの空間が必要だったからだ。
そう・・・それは二人だけの密室・・・・・そして・・・お互いが男女・・・・・
ここで初めて、睦美が自分に対して何かしらの思いを抱いてるように感じてきたのだ。
それは、睦美の返信が早いのが、このような展開になる事を望んでるかのようだったからだ。
それがもし真意なら、その先にある何かを考えると、慶の動悸は激しくなってきた。
睦美に淫らな妄想を描いていても経験した事のない領域・・・・・現実として考えると、今の慶には想像できなかった。
ただ、今のところは、睦美のデッサンを望む気持ちが、真意なのか偽りなのか確実には分からなかった。