「こんな日は部屋を出ようよ」前編-11
──これ、ルリにあげよう。
そう頭に浮かんだ瞬間、直ぐに打ち消した。
あの子ほどの才女に、僕のような凡才が使った参考書など不要に決まっている。
そんな当然の事を押し退けて、真っ先にあげようと浮かぶとは、何れほどの自信家なんだ。
(でもなあ……)
しかし、このまま却下する気にはなれなかった。 この参考書のおかげで、今の自分が在るのだから。
結局、他の教材と一緒に鞄に詰め込んだ。 機会を見て訊ねればという軽い気持ちだった。
夕方になり、出掛けようとしたところに、仕事を終えた母が帰って来た。
事情を話して玄関を出ようとすると、背中越しの声が呼び止めた。
何事だろうと訊くと、母は、ルリの事を根掘り葉掘りと訊いてきた。
僕は質問に答えながら、母の真意を図りかねていた。 何かを知りたいのは解るのだが、遠回しな言い方では問答のようで埒があかない。
それに、僕としても時間の余裕がない。 この際、ズバリと言うのがお互いのメリットに繋がる。
「それで結局、何を知りたいの?」
端的に訊いた僕に、母は困った様子だ。
「その……ルリちゃん、あんたの事、どんな目で見てる?」
「はあ?何を言ってんの?」
「いや、ちゃんとやって……」
「もういいよ!」
わけが分からない。 何を知りたいのか解らないが、段々、腹が立ってきた僕は、話を切って家を出た。
母が家庭教師の事で訊くなんて初めてだった。
バイトとはいえ、仕事ぶりが気になるのなら理解するが、教わっている側の素行が気になるなんて、何があったんだ。
不毛な会話のせいで、時間の余裕を無くした僕は、先を急いだ。
叔母の家に着いて、ドアフォンを鳴らした。 何時もは直ぐに返事があるのに、今日に限って応答が無い。
どうしたものかと、もう一度鳴らした。 すると、ドアの奥から床板を叩く音が、此方へ向かってくる。
ゆっくりとドアが開いた。
現れたルリは、息を切らせていた。
「ど、どうかしたの?」
気になって訊いてみたが、彼女は苦し気な表情で「何でもないです」とだけ答えて、僕を中に入れてくれた。
今日のルリは、チェックのシャツにショートパンツ姿。 後ろに束ねた髪と同様、夏の装い。 あれから、何度も私服を見てるが、一度たりとも同じ服でない事に感心させられる。
「えっ?」
部屋に入るなり、ルリは焦った表情でベッドに飛びついた。 何事かと見ると、ベッドの上に鞄と制服が、無造作に置かれていた。
これで解った。
帰宅の遅れた彼女は、着替えた後に鞄と制服を仕舞い忘れたのだ。
慌てようが目に浮かぶ。 そう思うと、ニヤニヤが止まらない。
片付けを終えたルリは、僕の変化に気付いて頬を赤らめた。 俯き加減で頬を染める仕種。 それを見た時、僕の中で、目の前のルリと8歳の頃のルリが重なった。
この子の、根幹にある性質は何ら変わっていない。 7年という歳月で培った処世が、別人のような人格を生み出したのだろう。
そう思うと、不可解だった彼女の中にある暗い部分を見た。 そして、自分の頃と照らし合わせて見て、不憫さを感じた。