眠れない妻たちの春物語(第三話)-1
…もう、あなたと別れたいの…
小瓶に差された赤いシャクナゲの花びらに、ふと指を触れたとき、私は小さく呟いた。
三歳年下のマサキと離婚したのは、私が三十五歳のときだった。私は、そのとき会計事務所で
働いていたが、彼は定職につくこともなく、ずっとアルバイトを続けていた。
そう言えば、マサキと結婚したとき、彼が私の髪に小さなシャクナゲの花を差してくれたこと
があった。
…かわいい…とても素敵じゃないか…サワコ…
鏡に映った私の姿を見て、彼はそう言ってくれたことがあった。
でも…
わかっていた…彼の憧れの視線の先が私ではないことを…。
山なのだ…。
年に二回ほど、ふらりと家を出て、しばらく返ってくることのない彼は、以前からずっと山登り
を続けていた。そのために定職につくこともなかったのだ。
いつかヒマラヤに行きたいと言っていたマサキに、結婚しようと言い出したのは、なぜか私だっ
た。白いヒマラヤの写真を見つめる彼の瞳の中に、私はなぜか無性に抱かれたかった。
いや…彼の山を見つめる瞳があまりに眩しすぎると思ったからこそ、マサキに私という女を
もっと見て欲しかったのだ。
あの山のように私は美しくないけど、私が私であり、マサキのものであるために、体中が窒息す
るくらい強く抱きしめて欲しかった。そう… 今すぐにでも、彼のリュックにあふれたロープの
束で、強く縛ってマサキのものにして欲しいと思っていたのだ。
マサキの瞳の澄みきった眩しさに性の息苦しさを感じながら、縛られたからだをマサキに貪られ
る夢を何度見たことだろう。
欲したことが充たされない寂しさは、やがてとらえどころのないマサキへの不満となり、私は
二年間の短い結婚生活に終止符を打った。早朝、山に行く準備をしていたマサキに、私は離婚を
告げると家を出たのだった。
それ以来、マサキには会っていない。そして、彼と別れた一年後に、私は今の夫と再婚した。