眠れない妻たちの春物語(第二話)-5
「わたし、結婚することにしたわ…」
閉店した深夜のライブハウスで、ふたりきりになったとき、私はタシロに呟いた。
「いいんじゃないか…オレたち、先が見えなくなってきたってことだ…潮時ってことか…」
タシロは、気だるいため息をつくと、虚ろな瞳を天井に向けた。私が予感した言葉を、タシロは
さらりと呟いた。
どうして、私たちのあいだには愛という言葉がでないのだろう…。タシロと出会った頃、私たち
は確かに愛し合っていたはずだった。
お互い沈黙を保ったまま、空白の時間がゆっくりと過ぎていった。
突然、ピアノの前に座ったタシロは、私のためにつくったというオリジナルのラブソングを聞い
て欲しいと言う。ピアノの鍵盤の上に静かに指をかざす。そして、タシロは私のために最後のピ
アノを弾いてくれた。
「ユキコのこれからの愛と幸せのためのラブソングってところだ…」
一言だけ小さく呟いたタシロの顔に、私が今まで見たこともない切なげな笑みを見た。バラード
風のゆるやかな旋律が、私たちの関係の終焉を告げるように流れていく。
その流れるピアノの音に、私は強い苛立ちと焦燥を感じた。
私は、そんな言葉もそんな曲も欲しくはなかった…どうして、私を愛していると言ってくれない
のか…私は、タシロとの過去のすべてをたどり、ふたたび眩しく煌めくものを掬いあげること
ができたらと… やっぱり私はそう思い続けていたのだ。
「すごいな…この日本人ピアニスト…」
ケンジのからだに寄り添ったまま、微かに眠り込んでいた私が薄く目をあけたとき、淡いスタンド
ライトに照らされたベッドの中でウイスキーグラスを手にしたケンジが呟いた。テレビに映しださ
れた映像が、突然、私の瞳の中に飛び込んでくる。
ニューヨークのカーネギー・ホールでのジャズ・フェスティバルで、興奮した多くの観客が、ほぼ
全員スタンディング状態で、ステージの中央に立ったピアニストの男におしみのない拍手の渦をお
くっていた。彼は今年度の最優秀アーティストだった。
私は、その映像に釘付けにされるようにステージの男を見つめる。
…そのピアニストは、七年ぶりに見たタシロだった…。
あのころと同じように口髭を生やし、観客に向かって笑顔で手を振っていた。かすかに白髪が交
じった頭髪をした彼の顔がアップで映し出されたとき、私は、タシロとの遠い記憶に吸い寄せら
れたように身じろぎすらできなかった。
スポットライトを浴びたステージの上で、まわりの人たちと笑顔で握手を交わすタシロの姿が、
きらきらと耀きながら、幻影となって私の瞳の中に舞い上がる。